Jリーグで愛されたオ・ジェソクが今こそ語る、 「名古屋移籍」と「韓国復帰」の裏側【一問一答】
かつてガンバ大阪、FC東京、名古屋グランパスに在籍したオ・ジェソク。彼は母国でプレーする今も、Jリーグのファンに愛され続けている韓国人選手の一人だ。
2010年に水原三星(スウォン・サムスン)ブルーウィングスでプロデビューした後、2013年に江原(カンウォン)FCからガンバに加入した右サイドバックは、FC東京へのレンタル移籍を経て、名古屋で過ごした2020年までの8年間でJ1通算148試合に出場。何より、ピッチ内外で見せる誠実な人柄で多くのファン、サポーターから支持を受けた。
その後は2021年1月の仁川(インチョン)ユナイテッド移籍で9年ぶりにKリーグ復帰を果たし、現在は加入2年目となるシーズンを送っている。Jリーグの舞台を去って早1年半が経つが、韓国での近況が気になる人は多いはずだ。
そんなオ・ジェソクが今回、首都ソウル近郊にある所属チームのホームタウン・仁川で単独インタビューに応じてくれた。
全5回でお届けするオ・ジェソクとの一問一答。第1回は「名古屋移籍」と「Kリーグ復帰」の経緯についてお送りする。
「今も日本のことが恋しい」
―名古屋から仁川に移籍して早くも1年半が経ちますが、移籍後も多くの日本のサッカーファンがオ・ジェソク選手を応援しています。韓国に帰った今も、日本からの応援を感じることはありますか。
「実際、毎日毎日恋しいですよ。多くのサポーターの方々から、本当に温かな愛をいただいたんですから。特に、大阪は本当に故郷のような場所でしたし、今も大阪での生活に対する恋しさがあって、大阪で食べた料理が懐かしく思うこともあります。初めて日本に行ったときは自分にとって大きな挑戦でしたが、今思うと、日本に行ったことは本当に最高の選択でした」
―ガンバで特に長くプレーしたオ・ジェソク選手ですが、今も懐かしく思う大阪の料理はあるのでしょうか。
「お好み焼き、たこ焼き…それに焼きそばも好きでしたね。韓国でも何回か日本料理店で食事をしたことはあるのですが、やっぱり本場には敵いませんね。日本で本当にレベルの高い、美味しい料理をたくさん食べてきたので。どのお店に行っても惜しく感じるので、そういったところでも、日本のことが恋しく感じますね」
―仁川移籍後には、日本から仁川のユニホームを購入してくれたファンのために、オ・ジェソク選手自らユニホームや色紙にサインを書いたというエピソードが話題になりました。当時はどのような経緯で、サインを書くことになったのかが気になります。
「そもそも、日本からユニホームを注文してくださるとはまったく思っていなかったんです。それで、想像以上に多くの方が注文してくださったので、感謝の意味を何か表現できないかと思い、“サインを書いて送るのはどうか”とチームに提案して、あのような試みを行いました。日本のファンの方々も喜ばれたみたいで、とても嬉しく思っています」
―「日本からたくさんユニホームの注文があった」というのを、チームの担当から伝えられたのでしょうか。
「そうです。本当にたくさんの注文があったみたいで、200枚は超えたみたいですね。その一枚一枚にしっかりサインしましたよ。(日本からの大量注文は)クラブとしても初めてのことだったので、かなり驚いたらしく、どうすれば良いのかと相談されました。僕自身も初めての経験でしたが、日本のファンの方々の愛を改めて実感することができました」
「初めて話す」2年前の出来事の裏側
―それにしても惜しまれるのは、日本を離れることになった背景です。長年在籍したガンバを離れるときもそうですし、その後の名古屋移籍。さらには、名古屋から契約延長のオファーがあったなかでも韓国復帰を決断したことなど、当時の心境について教えていただけますか?
「これは初めて話すことなのですが、ガンバ大阪で過ごした最後の6カ月間は本当に多くの出来事がありました。レンタル移籍でプレーしたFC東京ではリーグ準優勝という特別な経験をしたので、あとはガンバ大阪に復帰してチームに貢献し、最後の日本生活を終えたいという気持ちが個人的に強かったんです。
しかし、2020年の沖縄キャンプの途中で、“今シーズンの計画にないので、ほかのチームをあたってほしい”と強化部長から直接伝えられました。当時はJリーグ開幕まで残り19日という時点でした。
どのチームもキャンプを終え、開幕に向けた準備を進めていく時期にあったので、新しくチームを探すことはとても難しかったです。運良く、開幕10日前にJリーグのとあるクラブが関心を示してくれましたが、オファーを断りました。このような形でガンバを去りたくなかったからです」
―オ・ジェソク選手のガンバ愛は有名なだけに、そうやって離れたくなかったという気持ちはよくわかります。
「そこで、個人的に宮本恒靖監督と2人で面談をしました。僕自身、一試合でもいいからガンバのユニホームを着てプレーしたいという思いがあって、そんな僕の意志を汲んでくれたことや、宮本監督の配慮もあり、6カ月間の契約が決まりました。それがリーグ開幕1週間前のことです。
その後、初めて僕はトップチームの選手と一緒に試合の準備をし、前年度優勝チームだった横浜F・マリノスとの開幕戦で先発出場しました。今でも一番ありがたかった記憶は、チームメイトが“ジェソクのために勝とう”という雰囲気を作ってくれたことでした。こうして苦労して得た機会で、勝利という最高のプレゼントをもらうことができて、今も心の中には感謝の気持ちしかありません」
―でも確か、そのあとですよね。新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化するのは…。
「そうですね。リーグ戦が夏まで中断になって、6カ月契約だった僕はチームの決定を待っていた立場でした。当時は韓国と日本でリーグ戦の再開時期に1カ月半ほど差があったので(※Kリーグ1が5月8日再開、J1リーグが7月4日再開)、ガンバでの契約延長可否が非常に重要でしたが、なかなか結果が出ませんでした。
そうして、ようやくチームから条件を提示してくれたのですが…プロ1年目の選手の扱いにもならない条件でした。正直に話すと、あの日、ガンバに対する尊重の思いは消えました」
―韓国メディアの関係者からも聞きました。ユースから昇格した選手がもらう年俸の半分にもならなかったと。
「条件については細かく明かしたくはありませんが、あのときは寂しい気持ちになったし、ガンバらしくなかったというか…。“7年在籍した自分を特別扱いしてくれ”ということでは決してありません。コロナの影響でクラブの財政が難しかったのであれば、“財政的な問題で契約延長は難しい”と言ってくれれば良かったのに、そうやって配慮することもそんなに難しかったのか、と思いました。7年間チームに在籍したのに、“配慮がない”、“無視されている”というようにも思えて、寂しい気持ちになりました。
ただ、今はたくさん歳月が過ぎましたし、当時の出来事、それぞれの人たちの立場など、すべてのことを理解しています。どれも人生で経験することだと思います。それに、ガンバとは寂しいお別れに終わりましたけど、その後に名古屋グランパスという良き出会いもありましたからね」
―確かに、オ・ジェソク選手の名古屋移籍は驚きでした。
「ガンバとの関係がもつれたとき、“韓国に戻りたい”と感情的に思ったときもありましたが、正直な心情では、日本でもう少しだけプレーしたいという思いも強かったんです。そこで幸い、帰国する2日前に名古屋から連絡をいただいて、劇的に加入することになりました。合流初日に太ももを負傷してしまって、最初は良い活躍を見せられずにいましたが、徐々にチームに適応することができて、結果としてチームはリーグ戦3位で9年ぶりのAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得できました。
それからはたくさん悩みました。10月頃にまず韓国から提案をもらって、続けて名古屋からも提案を受けましたが、公式オファーは名古屋の方が(韓国より)もっと早かったんです。でも、そのとき思い浮かんだのが、日本で一番パフォーマンスが良いときこそ、韓国に戻って挑戦をすることに意味があるのではないかということでした。僕自身、それまで日本で培った経験をもとに韓国で力を発揮する機会がなかったので、Jリーグで自分が本当に成長できたのかを試したいと思い、Kリーグに移籍する決断を下すことになったんです」