トルシエから「100%信頼されていなかった」 宮本恒靖が日韓W杯時の“関係性”を吐露
「日韓W杯、20年後のレガシー」#31 宮本恒靖の回顧録・第4回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
【画像】日韓W杯から20年、トルシエ&中田ヒデら懐かしの日本代表が集結 記念式典で撮影された実際の集合写真
フィリップ・トルシエ監督に率いられたチームは、宮城スタジアムで行われた決勝トーナメント1回戦のトルコ戦に0-1で敗れ、4年間の活動を終えた。日本サッカー史上初のベスト16という歴史的な偉業を達成した一方、誰もが敗退直後に抱いた不完全燃焼な想い――。最終ラインからチームを支えた宮本恒靖はあの日、どのような心境だったのか。20年が経った今、改めて感じるトルシエ監督の印象とともに話を聞いた。
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2002年日韓W杯で、日本はグループリーグを2勝1分の首位で通過。日本の快進撃に国中が沸き立ち、試合後には渋谷の交差点が大勢の人で埋まった。その熱狂のボルテージが上がるなか、日本はベスト16でトルコと対戦した。
試合会場に入り、ミーティングで宮本恒靖たちに告げられたのはスタメンの変更だった。
「ヤナギ(柳沢敦)が首を痛めて、前日の練習では西澤(明訓)とアレックス(三都主アレサンドロ)がFWに入っていたんです。本当にこのスタートでいくのかなと思っていたけど、ヤナギが間に合わなかったので前日のままになった。スタメンは監督が決めることだけど、トルシエのスーツが予選リーグの時は紺色だったのに、この時にはグレーに変わっていたところには、選手の中ではざわざわしたものがありました」
よく“勝っているチームはいじるな”と言われるが、柳沢は首痛で仕方なかったにしても、前線には初戦のベルギー戦(2-2)でゴールを決めた鈴木隆行がおり、森島寛晃もいた。スタメンを入れ替えるのは、最小限で済んだはずだった。
「当時の記事なんかを読み返すと、2人の起用はトルシエの閃きで、大胆な賭けに出たみたいに書かれていたけど、個人的にはそうとは思わなかった。何も研究されていなかったアレックスを使うってことは、秘策として残していたのかもしれないですけど」
「もっと何かできた」との悔いが04年アジアカップに繋がった
日本は前半12分に失点し、試合の流れはトルコに傾いた。トルシエが率いるチームは前から激しくプレッシングをかけてボールを奪い、素早く攻めるスタイルだった。だが、トルコは1点を先制したことで無理をする必要がなくなり、カウンター狙いで日本を待ち構えていた。
「トルコが引いて、自分たちがボールを持てることで、リアクションじゃなくなって、本来の強みを出せなかった。相手にのらりくらりかわされ、攻めあぐねている感がすごくあった。ペナルティーエリアの中に入っていくところも崩し切れなくて、これは点を取るのは難しいなというのは感じていました」
トルシエは後半開始から、この大会のラッキーボーイ的な存在だった稲本潤一に代えて市川大祐を入れ、奇策としてスタメン起用したアレックスも鈴木に代えた。だがトルコは、欧州を勝ち抜いてW杯出場権を掴んだ国。守備に徹すれば、そう簡単にやられるわけがない。日本はグループリーグの流れを取り戻そうとしたが、ピッチにはラッキーボーイも前線のポスト役である柳沢もいなかった。
後半30分を過ぎると、焦りが生じてきた。
「このままだと負けてしまうみたいな焦りとプレッシャーが出てきた。チャンスはあったけど、トルコの守備が堅くて、最後が崩せなかった」
宮本が危惧した通り、その後も何も起こらなかった。失点してからの78分間は、「このまま終わっていいのか」という思いを抱えたなかで過ぎていった。日本は0-1でトルコに敗れ、ベスト16で日韓W杯の旅を終えた。雨の中、最後まで応援してくれたファンにピッチ内から挨拶して回ったが、心の中は空虚だった。
「不完全燃焼だったし、もったいない試合だったと思います。全力で戦って負けた感じじゃなかったし、もっと何かできたんじゃないかっていうのは、試合が終わった後により感じた。例えば、ラストはマツ(松田直樹)を上げてパワープレーをすれば良かった。その経験が(2004年の)中国でのアジアカップ準決勝(バーレーン戦/4-3)で、(中澤)佑二を前線に上げて同点ゴールを挙げることに繋がったけど……。02年はホスト国で対戦相手に恵まれたし、宿舎などの環境も良かった。ただ、上手くいき過ぎて、トルコ戦の先を見て戦ってしまった。W杯は、そんなに甘くないと思いましたね」
シドニー五輪後は「100%信頼されている感じではなかった」
試合後、宮本はトルシエに肩を叩かれ、軽く握手をした。特に言葉はなかった。もっともこれまでも試合後に、指揮官から声をかけてもらうことは少なかった。
宮本は選手として、トルシエとの関係をどのように見ていたのだろうか。
「五輪代表の頃は信頼を得た感じはあったけど、(シドニー五輪が)終わってからは自分以上に良いパフォーマンスをしていた選手もいたし、自分は100%信頼されている感じではなかった。ワールドカップで戦える選手であることを見せてメンバーには入れたけど、『こいつ、大丈夫かな?』と思って起用していたと思うし、それはすごく感じていた。でも、そのなかでもやるのが選手。そこで監督に対して懐疑的になっても仕方ないから、やるべきことに集中した」
トルシエの代名詞である戦術“フラットスリー”の中核を担う1人として、02年日韓W杯までの道を駆け抜けた宮本。様々な逆風にもめげずに結果を出し、自身を成長させてくれた指揮官に、あの時代に出会えて良かったと感謝の気持ちでいっぱいだ。
■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto
1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。