中田英寿と16歳から深めた絆 歴代日本代表で果たした、“宮本恒靖にしかできない”役割
「日韓W杯、20年後のレガシー」#28 宮本恒靖の回顧録・第3回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
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日韓W杯に向けてフィリップ・トルシエ監督が率いた4年間は、日本サッカーの歴史を大きく変えた中田英寿の全盛期だった。当時の世界最高峰リーグであるイタリア・セリエAでプレーする絶対的エースの存在は、ともすれば若手の多いチームで浮いてしまうが、そこで融合に一役買ったのが宮本恒靖だ。「回顧録」第3回では、年代別代表からともに戦い、対等な立場で意見を交わしてきたからこそ生まれた2人の絆に迫る。
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黒のフェイスガードをつけ、鬼気迫る姿でフラットスリーを統率し、グループリーグ第2戦のロシア戦(1-0)ではW杯史上初勝利を挙げ、決勝トーナメント進出に貢献した。
だが、宮本恒靖がチームを統率したのはピッチの中だけではなかった。エキセントリックな監督の下、日本のエースをピッチ内外でフォローするという宮本にしかできない役割を果たしていた。
その相手が、中田英寿だった。
「シドニー五輪最終予選の壮行試合だった日韓戦(1999年9月7日/4-1)の時に、初めてヒデ(中田)が来たけど、トップレベルでプレーしている選手がチームに入ってくるインパクトはかなり大きかった。でも、最初はみんな遠慮していて、ヒデもなんかやりづらさを感じているようだった。このままだと良くないな、なんとかしないと、と思いましたね」
中田は98年フランスW杯後、セリエAのペルージャに移籍し、1年目から圧倒的な存在感を示していた。U-22日本代表(当時)に招集された時、誰もが中田の凄さに圧倒され、容易には近づけない感じになっていた。宮本は中田と同じ77年の早生まれで、U-17日本代表でもプレーした旧知の仲だった。チーム内で対等に中田にものが言えるのは宮本しかおらず、またキャプテンでもあったので必然的に“中田番”のような存在になっていった。
「下から一緒にやってきたのは自分しかいなかったから、自然とそんな感じになったと思う」
五輪代表合宿で「ヒデが入りやすい雰囲気を作った」
合宿当初、稲本潤一ら下の世代は、中田を遠巻きにして見ていたという。
「イナ(稲本)ら下の世代は、力があったし、勢いもあったけど、ヒデが来た時は、最初、大人しく観察している感じだった。自分らの上を行くレベルの選手が入ってくることで、よりチーム力が上がるというのは、みんな分かっていたし、どんなサッカーをやるのかというところに、みんな関心があったと思う。でも、その前にヒデとどうコミュニケーションを取ったらいいのか分からない感じやったし、それはヒデも同じだった。それで食事の時、福田(健二)らを呼んで4人掛けのテーブルに座り、ヒデが入りやすい雰囲気を作ったのは覚えています」
宮本の食事でのテーブル作戦で、朝昼夜といろんな選手が中田のところに来るようになった。練習ではみんなで輪になり、リフティングゲームをして和むと、初日はみんな「中田さん」と呼んでいたが、3日目には「ヒデさん」と呼ぶようになっていた。シドニー五輪の本大会でも宮本は、中田とカフェで息抜きするなど、ストレスを溜めさせず、孤立しないように気を配った。
だが、シドニー五輪が終わりA代表になると、中田の雰囲気が少し変わってきた。
「ヒデは、下の世代とはどう接していけばいいのかなって感じだったけど、上の世代の選手と接するのが楽というか得意みたいな感じだった。シドニー五輪予選の時からチームとヒデの融合を目指してやってきたけど、A代表になってからはそこまで気を配る必要もなくなった。自分よりも上の世代が増えたし、彼らと一緒にいることが多かったので」
中田は前回のフランスW杯時のように、トルシエのチームでもあっという間にエースになった。2001年のコンフェデレーションズカップでは、グループリーグ3試合を終えた時点でローマに戻る予定だったが、フィリップ・トルシエが帯同を熱望。日本サッカー協会とローマが協議して準決勝までのプレーが決まった。中田はその試合でゴールを決めて、決勝進出を置き土産にしてローマに戻った。
宮本は日韓W杯でメンバー入りした後も、中田とコミュニケーションを取っていた。グループリーグ初戦のベルギー戦、2-1とリードした後半26分に森岡隆三が負傷し、宮本が投入されたわずか4分後に失点。その時、中田は宮本の傍に来て、声をかけた。
「ツネ、切り替えていけよ」
宮本は“分かっている”と、手を振って応えた。
失点で重く沈んだ空気になり、皆が無口になるなか、中田だけが宮本に声をかけてきたのだ。宮本は気持ちを切り替え、それ以上の失点を許さず、貴重な勝ち点1を獲得した。
ドイツW杯で宮本が感じた、中田の少し異なる雰囲気
日韓W杯の活躍で確固たる地位を築いた2人は、06年ドイツW杯でもチームの主力としてプレーした。だが宮本には、中田に02年の時とは少し異なる雰囲気を感じていた。
「04年からヒデが怪我に苦しんで、サッカーを楽しみたいと思うタイプなのに、楽しみ切れていなかった。代表ではヒデがキャプテンだったけど、05年のイラン戦の前、久しぶりに合宿に参加してきた時、『キャプテンやってよ』と言ってきた。そんなことを言うタイプではないので、意外だった。チームでのヒデは、02年と同じ重要な選手というところは変わらなかったけど、ヒデ自身がサッカーに対していろいろ考えるところがあったのかなと思う」
ドイツW杯、ブラジルに1-4で敗れてグループリーグ敗退が決まった時、引退を決意していた中田はピッチに仰向けになって倒れたまま動かなかった。中田に声をかける選手はいなかったが、宮本は累積警告で出場停止だったのにもかかわらず、ピッチに出て、声をかけに行った。それは、2人の16歳の時から始まった日本代表での戦いが終わった瞬間でもあった。
■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto
1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。