「この監督の言うことを信じていれば、世界に勝てるかも」今野泰幸がワクワクしていた日本代表とは
今野泰幸の日本代表デビューは2005年8月、ジーコ監督が率いていた当時のことだ。以来、愚直なボールハンターは歴代の日本代表監督に重宝され、計6人の指揮官の下、国際Aマッチ通算93試合に出場してきた。
なかでも最も長い期間、そして最も多くの試合でプレーしたのは、アルベルト・ザッケローニ監督の時代。次いで、岡田武史監督の時代である。
「正直、代表への思い入れは、ザッケローニ監督の時とか、岡田監督の時とかのほうが強かったんです」
今野がそう語るのも当然のことだろう。だがしかし、彼がベストゲームに選んだ試合は、意外なことにいずれの監督の時代にも該当しない。
「でも、いろんな状況を踏まえたなかで、ああいう大仕事ができたというか、チームが勝つこともできたし、自分が得点をとることもできた。それはすごく評価できることなのかな、と」
自ら「珍しく、僕らしくないことをやった(笑)」と振り返る試合とは、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督時代の2017年3月23日、UAEのアルアインで行なわれたワールドカップロシア大会のアジア最終予選、日本vsUAEである。
それは突然の招集から始まった。
「あの試合、僕は急遽(五輪代表の)オーバーエイジみたいな形で呼ばれたんですよね」
今野が苦笑いで振り返る。
「長谷部(誠)がケガで出場できなくて、急にポンと呼ばれて結果を残さなきゃいけない、という状況でした」
日本代表での経験が豊富な今野も、当時はハリルホジッチ監督就任以降、2015年3月の親善試合2試合に出場しただけ。日本代表から遠ざかり、すでに2年が経過していた。
「代表引退はしていなかったですけど、もう(招集は)ないだろうなって、ファンみたいな感じで日本代表を応援していたので……。急遽呼ばれて、正直、頭のなかを整理できませんでした」
もちろん、「サッカーは好きだし、日本代表戦は見ていても面白いし」、試合は欠かさずチェックしていた。この時の最終予選初戦でUAEに敗れた時も、「最終予選ってそんなに甘いもんじゃないし、若い選手もそういう経験をしながら成長していく場だと、そういう(客観的な)感じで見ていました」。
にもかかわらず、初戦で敗れた相手とのリターンマッチで、しかもキャプテンを欠くなかでの大抜擢。「なぜ、ここでオレ?」。それが今野の本音だった。
チーム合流後も、ハリルホジッチ監督から唐突な招集の経緯を聞かされることはないまま、「ただ、みんなと一緒にトレーニングするだけ。とにかく自分なりに考えて、解釈して、自分のやるべきことを考えてやるだけでした」。
ところが、疑問や不安を抱えつつも覚悟を決めて飛び込んだ日本代表は、自分が知るかつての姿とはまったく異なるものだった。
「正直言って、練習をやっていても、あまり雰囲気よくないぞ、というのはすごく感じていました」
今野がためらいがちに口を開く。
「なんかチームがバラバラというか、選手が監督に反発しているというか……、紅白戦をやっていてもあまりいい雰囲気ではなく、むしろサブ組のほうがアピールしてやるぞって、いいプレーをしていたり。こういう状況でチームってうまくいくのかな、という思いはありました」
「とにかくピッチに立ったら100%の力を出すしかない」と頭では理解しているが、どうにも気持ちがスッキリしない。そこで今野は、旧知のチームメイトに率直な思いをぶつけてみることにした。
「ふたりは僕より年下ですけど、経験があるし、いろんな修羅場をくぐってきた選手なので。何より本音でぶつかれば、本音で返してくれる人たちに相談しました」
訪ねた相手は、本田圭佑と岡崎慎司である。
「今の日本代表は、チームとしてうまくいってるのか?」
「このチーム状態のなかで、オレはどうすればいいのか?」
そんなことを包み隠さずぶつけると、彼らは必ずしも良好とは言えないチーム状態に触れ、こんな話をしてくれたという。
コンちゃんみたいに誰かのためにプレーできる汗かき役が、今のチームにはいない。だからコンちゃんは、そういう仕事をやればいいんじゃないかな――。
「そう言ってもらって、結構スッキリできました。うまいことやろうっていうより、五分五分のボールをマイボールにするとか、相手ボールをちょっと突っついてマイボールにするとか。とにかく自分ができることだけをやろうって思いました。
ふたりからのアドバイスは、かなり大きかったです。心のなかを整理して試合に臨めました」
UAE戦直前にかわした本田とのちょっとしたやりとりも、今野は今でも記憶に留めている。
本田「コンちゃん、緊張してる?」
今野「緊張してるよ、そりゃあ」
本田「大丈夫だよ、何があっても死ぬわけじゃないんだし。思いきりやればいいよ」
短い会話だったが、「それでちょっとほぐれたっていうか、その言葉は印象深いです」。
UAE戦で今野が任されたポジションは、4-3-3の左インサイドMF。本来なら周囲との距離感や連係に配慮すべきなのだろうが、理詰めで役割を与えられていたわけではない。
今野自身の感覚としては、「周りとの連係とかいうよりも、自分がやることだけに集中する感覚に近かった」という。
「正直、練習時間も周りと合わせる時間も少なかったので、ノリでやっていた部分が大きかったです。僕って結構、昔は考えてプレーするより、動物的な勘というか、本能的にプレーしていたんですけど、なんか昔を思い出した感じでした。
本能的にボールを奪えると思ったら行くし、チャンスだと思ったら前に出るし。僕にしてみれば、そのノリがピッタリとハマっちゃった感じの試合でした。たくさんボールも奪えたし、得点もとれちゃったし、なんかうまくいったな、っていう(笑)」
と同時に、少なからず不安を抱えていた今野にとっては、日本が前半14分という早い時間に先制できたことも、大きな心の支えとなった。
「守備はみんなでがむしゃらにやれば、何とかなる手応えはあったけど、攻撃に関しては、紅白戦をしていても『どうやって点とるんだろう?』っていうのは感じていました。ましてや、インサイドハーフに守備的な僕がいるんですからね(苦笑)」
チームでうまく崩したというより、久保裕也が独力――相手の虚を突くタイミングで絶妙なコースに放ったシュート――で奪ったゴールは、当時のチーム状況を考えれば、これしかない形だったのかもしれない。
「だから、久保が個人で点をとってくれたのは、チーム全員に勇気を与えてくれましたよね。先にポンって点がとれたのは、僕自身にも与える影響はすごく大きかったです」
はたして今野は、その後も相手の攻撃を完璧に封じたばかりか、後半52分にはペナルティーエリア内で右からの久保のクロスを受けると、冷静にシュートを流し込み、2点目のゴールまで決めてしまうのである。
「あの年(2017年)、ガンバ大阪で(監督の)長谷川健太さんが、僕をインサイドハーフで使っていたんです。得点やアシストも期待している、みたいなことを言われていて、自分なりにそれを意識していた年でした。
僕は代表で(通算)4点しかとっていないし、そんなに点をとるタイプではないんですけど、得点に対する意識も高くなっていた時だったので、それを代表でもうまいこと出せて、得点することもできた。だから、すごく(チームの勝利に)貢献できた気持ちになりました」
実は試合後、ハリルホジッチ監督も「今野がガンバでどのようなプレーをしているかを追跡し、アイデアが湧いた」 と抜擢の理由を明かしている。
「僕はインサイドハーフだったので、前線にスペースがあれば上がっていかなくちゃいけないし、僕が絡んでいかないと攻撃に厚みが出てこない。もし僕がダブルボランチ(のひとり)だったら、たぶんあそこにはいなかったと思います」
初戦で苦杯をなめた難敵とのアウェーゲームも、終わってみれば2-0の完勝。敵地のサポーターの多くが、試合終了を待たずに席を立った。
ノリがハマった――。
今野がこの勝利をそんな言葉で表現したように、一見したところ、やることなすことうまくいった試合ではある。だが、今野らしい独特の表現に含まれているのは、必ずしもポジティブな意味合いばかりではない。
「一歩間違えば、大負けしていた可能性も十分あったと思います。完全アウェーで、会場の雰囲気もスゴかったんで。(UAEに)先に点が入ろうものなら、ガタガタって大崩れした可能性はありますよね」
今野は複雑な表情を浮かべ、言葉をつなぐ。
「やっぱり、そのぐらいチームとして雰囲気がよくなかったんで」
今にして思えば、試合後の取材エリアで聞いた今野の言葉は、当時の率直な気持ちを表していたことがよくわかる。「連係もクソもない。ふだん一緒にプレーしていない選手とやるわけだから」。なかば吐き捨てるような言い方が印象的だった。
日本代表はその後、無事にワールドカップ出場を決め、翌2018年にはロシアでベルギーを相手に歴史的名勝負を繰り広げることになる。今野もテレビの前で「勝ってほしいなっていう思いで、応援していました」。
だが一方で、UAE戦をきっかけに「サッカー選手として、ちょっと欲は出てきた」のも確かだった。ベルギー戦を見ている時も、「自分もこの場にいたかったなっていう思いは、正直、ありました」。今野は微笑して本音を明かす。
それでも、UAE戦での今野が「余裕もなかったし、いっぱいいっぱいになっていた部分もあったし。先のことはまったく考えられなかった」のは偽りのない事実だ。
「日本の窮地だったし、僕の頭のなかでは、”この1試合だけの長谷部の代役”でした」
そう語る今野は、当時の自分に託された役割を「中継ぎ投手」にたとえた。
「野球で言ったら、ひとりだけ抑える中継ぎのピッチャーがいますよね。僕はそういう感じだったと思います。自分が呼ばれた試合だけは、とにかく全力でチームに貢献しよう、っていうことしか考えていませんでした」
頼もしき必殺仕事人は鮮やかに”ワンポイントリリーフ”を務め上げると、受けたバトンを次へとつないだ。
「たぶん野球でも、ひとりを抑えるためだけに出てきて、それを抑えるって、めちゃくちゃ大変な仕事だと思います。僕はそれができたっていう感覚があるから、あの試合が自分のベストゲームかなって思うんです」
自分にはもう縁遠いものだと思い込んでいた日本代表。だが、今野泰幸は2年ぶりに招集され、UAE戦に出場したことで、気持ちにも少しずつ変化が生まれていた。
「久々の代表戦で、ヒリヒリするような緊張感のなかで戦うのはやっぱり気持ちいいものだったし、ましてや結果が出たんでね。欲は出てきますよね」
ワールドカップ出場が決まったあとも、「大枠の候補のなかには入っているのかな、とは感じていたので、もし自分がベストコンディションを作っていれば(本大会のメンバーに選ばれる)チャンスはあるのかな、とは思いました」
だが、そんな言葉の裏には、なかなかベストコンディションを作ることができないもどかしさを感じていたこともうかがえる。
「最近はもう何年もケガが多くて、ピッチに立てる機会が少なかったんです」
自身がそう認めるように、近年の今野は度重なるケガに悩まされてきた。相手が体の大きな外国人選手であろうと、まるで恐れることなく向かっていくプレースタイルが、体のあちこちに負担をかけてきたからなのかもしれない。
ケガが続き、満足にプレーができない日々。結果的にロシア行きがかなわなかった原因のひとつには、間違いなくケガもあっただろう。
だからこそ今野は、38歳で迎えた今季について「ケガも少なく、結構ピッチで思いきりよくプレーできているので、楽しくやれています」と笑顔で語る。所属するジュビロ磐田が念願のJ1復帰を決めたことも含め、充実のシーズンを過ごしたと言っていいのだろう。
「ただ欲を言えば、もうちょっとゲームに絡んで、チームに貢献したいなっていう気持ちはあるんですけどね。残り試合は少ないですけど、練習から100%でプレーして、自分をアピールしたいと思います」
J1昇格を目指した戦いの傍らでは、現在進行中のアジア最終予選も「すごく応援しながら見ています」。
今野が映像を通じて実感するのは、アジア全体のレベルアップだ。
「日本のレベルも上がっているとは思うんですけど、対戦国のレベルが、選手個人もそうですし、特にチーム戦術の部分でかなり上がっているなっていう印象を受けますね」
今野なりの分析はこうだ。
「たぶん指導者(の影響)だと思うんですけど、世界的な監督や、すごくレベルの高い指導者がアジア各国に来るようになって、イチから指導していると思うんです。アジアでも戦術レベルが上がってきているからこそ、簡単に勝つことはできなくなっているなという印象です」
「たとえば」とつなぎ、今野の指摘は具体的な変化に及ぶ。
「クロス対応とかでボールウォッチャーになりやすい人って、意識していても、その癖を直すのにめちゃくちゃ時間がかかるんですよね。だから、いくらいい監督が来て指導をしても、そう簡単には直らない。それが今、こうやってできているということは、育成から長い年月をかけて指導してきているからだと思います。
ボールのある位置によってポジションをとり直すこととかもうまくできるようになって、スキがなくなってきたなっていう感じは受けますね。戦術レベルで言ったら、もう日本と対等っていうか、そういうところまできているのかなと思います。
昔だったら、相手のサイドバックがボールウォッチャーになって、ひとつの予備動作で裏をとれたりもしていたけど、それが最後までついてくるとか。サイドバックの裏をとれたとしても、その後のセンターバックのカバーリングもポジショニングが的確だったりとか。相手が組織的になってきましたよね」
序盤戦にして早くも2敗を喫するなど、アジアでの戦いに苦しむ日本代表を目の当たりにし、今野は最終予選ならでは難しさを改めて実感している。
「アウェーに行くと、何でもないような場面でもお客さんが沸いて、自分たちはピンチになっているような錯覚に陥ったりもするし、相手選手もその声援に乗って、すごく躍動感のあるプレーをしてきたりもする。やっぱり今の選手も、そういった最終予選ならではの難しさを感じていると思います」
照れくさそうに「僕があんまり偉そうなことは言えないですけどね」とつけ加える今野だが、過去にはワールドカップ3大会でアジア最終予選に出場しているのをはじめ、年代別日本代表も含めれば、アジアでの真剣勝負を幾度となく経験し、その度に苦しい戦いを勝ち抜いてきた。
当然、今でも印象に残っている試合は数多い。
「(2011年の)アジアカップ決勝のオーストラリア戦とか、準決勝の韓国戦とか、やっぱり(アルベルト・)ザッケローニ監督の時は(日本代表への)思い入れも強かったので、当時の試合はよく覚えていますね。
あとは最終予選での、ワールドカップ出場が決まったホームのオーストラリア戦とか。そういう試合が思い浮かびます」
今野の回想に複数のオーストラリア戦が出てくるのは、「やっぱり日本の天敵、(ティム・)ケーヒルがいたので」。”日本キラー”と呼ばれた背番号4の強烈な印象とともに、それぞれの試合が脳裏に焼きついている。
「ケーヒルはジャンプ力がすごいので、僕とケーヒルがヘディングで競るとなったら、かなり分が悪いじゃないですか。それなのに、ザッケローニ監督は僕にセンターバックを任せてくれて、その対応をしなければいけないっていうことで、かなり信頼を感じました。
だから僕なりに考えて、ヘディングでバチンと勝てないにしても、体をぶつけまくって相手にヘディングをミートさせない。そういう仕事を多くできていた気がします。やられたシーンはそんなに……まあ、あったかもしれないけど、結構体にガンガンぶつかってクロス対応できていたので、そういう意味では僕自身、いい試合ができていたんじゃないかなと思っています」
今野がザッケローニ監督への信頼を口にするのは、単に長く一緒に過ごしたことだけが理由ではない。長い時間をともにするなかで、チームが形になっていく様子を目の当たりにできたからでもある。
「今でも覚えていますけど、ザッケローニ監督になって、すぐに攻撃の戦術をやったんです。でも、最初は『こんなのうまくいくのかな』って思っていたんですけど、毎回その練習をしていたら、その崩し方が試合で出るようになって。アジア最終予選とかでも、練習でやっていた形そのままで崩しきって点をとることも結構多かったんです。
『あー、こうやってチームって作っていくんだな』と思ったし、イチからチームを作り上げていく過程に関われたっていうのもあったし。『この監督の言うことを信じていれば、世界に勝てるのかもしれない』って思わせてくれました。やっぱりワクワクしましたよね」
思い入れが強かったがゆえに、結末は悔やまれた。
「ワールドカップは短期集中の大会で、1試合でチームって大崩れしてしまうというか、追い込まれてしまうというか。あの初戦の、コートジボワール戦に、勝つのがベストではあったけど、最悪でも引き分けていれば……。初戦で負けたことによって急に追い込まれてしまって、自分たちのサッカーを見失ってしまった。
チームって作り上げるのは大変だけど、なんかその……、崩れてしまうのは一瞬なんだなって、思わされた大会でした」
最終的な結果は満足できるものではなかったとはいえ、ザッケローニ監督時代の日本代表を振り返る今野は、どこか楽しげだ。当時を語る言葉が、流れるように溢れ出る。
自身がベストゲームに挙げたはずのUAE戦について語る時には、少しためらいを見せ、言葉を選ぶ様子を見せていたのとは対照的だ。
ザッケローニ監督時代の日本代表には強い思い入れがあり、しかも印象に残る試合がいくつもある。それにもかかわらず、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督時代のUAE戦をベストゲームに選んだのはなぜなのか。
そんなことを尋ねると、今野は「うーん」と唸って、しばらく沈黙したあと、訥々と話し始めた。
「もしかしたら……、もしかしたらですけど、自分はやっぱりセンターバックじゃなくて、ボランチの選手なんだって思っているのかもしれないですね」
困惑したように苦笑いを浮かべ、今野が続ける。
「その時(ザッケローニ監督時代)は、センターバックでも満足していたし、そこで使ってくれるのなら期待に応えたいと思っていたし、そこで成長したいとも思っていました。そのポジションで日本のトップになりたいとか、世界の選手にも負けたくないっていう思いもありました。そういう思いで、センターバックに誇りを持ってプレーしていたんですけどね……」
2年ぶりに呼ばれた日本代表は、必ずしもまとまりのあるチームではなかった。だが、そのことが逆に今野に腹をくくらせた。迷うことなく中盤でボールに食らいつき、チャンスと見れば攻撃に加わる。割りきってプレーしたからこそ得られた充実感は、眠っていた本能を呼び覚ました。
「やっぱりどこかで、自分はボランチだ、という思いがあるのかもしれません」