【明神智和】ボクはこうしてプロになった③|転機となった監督からの金言。「ボールを持っている時間はひとり2、3分」

山本昌邦監督からの言葉で生きていく道が見えた

柏レイソルやガンバ大阪などで名高い活躍をし、ワールドカップにも出場した元日本代表の明神智和氏。現在はG大阪ユースコーチとして指導者の立場にある同氏が、プロを目指す子どもたちに伝えたいこととは――。

第3弾は、数々の指導者から受けた影響、そして指導者となった今、自らがどんなプロ選手を育てていきたいかについて語ってもらった。

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これまで本当にたくさんの指導者の方に教えていただいて、今振り返ると、本当にいろんな人との出会いがあったからこそ、プロになれて長く活躍できたのだと素直に思います。

僕自身が、プロになりたいと真剣に考えたのは、中学3年生の夏以降。今とは時代もちょっと違い、小学生の頃にはプロがなかった世代です。だから、小さい頃はとにかく楽しくサッカーをやるだけでした。

中学生年代になって初めてサッカーを頭で考えてプレーする経験をしました。当時イーグルスユナイテッドFC(現柏イーグルス)という千葉県内のクラブチームに入っていて、二人のコーチから、サッカーを楽しむという部分にプラスして、考えるということを教わりました。

とはいえ、内容は現代のような戦術的な話や、細かい技術的なことではなく、小学生でも分かるような基本的なことばかり。今までは感覚だけでやっていたことを、少し考えてプレーすると良いよというものです。

その後に入った柏レイソルユースは、いわゆるプロクラブの下部組織。よりプロが間近にあるなかで、とにかくキック、走る、ゲーム、その3つをとことん教えられました。

考えてプレーすることを強く意識したのは、1996年に初めて呼ばれたユース代表(U-19日本代表)に参加した時でした。

僕自身、技術にコンプレックスがあって、なかなか上手くいかないなかで、ポジションも前をやったり、後ろをやったりと、いろんなところをやって、初めてユース代表に選ばれた時に、当時の山本昌邦監督に「90分の中で、ボールを持っている時間はひとり2、3分だ。残りの87分はボールがない時間。ボールがない時間がこれだけあるのだから、その時間にどれだけ良いプレーをするか。ボールの無い、オフ・ザ・ボールの時のプレーの質がものすごく大事だ」と言われて、初めて自分自身が「これが生きていく道なのかもしれない」と思わせてもらえました。

今まではミスにせよ、良いプレーにせよ、ボールのある所ばかりにフォーカスしていたのが、そういうところじゃない部分のプレーにも力を入れるように、より考えるようになりました。

高校年代では全く選抜にすら選ばれたことがなく、そういうなかでもプロにはなれましたけど、チャンスが無ければ2年ぐらいでクビになるかもなと思っていた時期だったので、自分の生きていく道を見つけられたあの言葉や出会いというのは本当に嬉しかったです。

「お金に見合ったプレーを見せないといけない」

もう一つの大きな出会いは、プロになる(1996年に柏のトップチームに加入)直前のユース時代に指導を受けたコーチの田村(脩)さんです。バルセロナ五輪の代表チームのコーチを務めていた方で、前の年までは柏のトップチームを見ていて、94年から95年までユースチームのコーチを担当していました。

その田村さんからは、プロとはどういうものかを教わりました。

プロは、走るとか、戦うとか、そんなのは当たり前の世界で、それプラス、「お金をもらう仕事だから、そのお金に見合ったプレーを見せないといけない」と言われました。それはその後の僕のプロ人生のなかでも一番大事にしていたことで、他にもその時々で言われた言葉は心に残っています。

プロになってから出会った最初の指導者は、ブラジル人のニカノール監督でした。あまり名声や先入観にとらわれない人で、もちろん試合中は、何回も怒鳴られたり、練習中もよく怒られたりはしていましたが、その都度笑顔でフォローしてくれ、悩んでいた時にそっと、「お前のやれることだけやっておけばいい」と声をかけてくれるような方でした。

その後は西野朗監督の下でプレーしました。選手とたくさんコミュニケーションをとる方ではなかったですけど、すごく選手を見ている監督で、だからこそのプレッシャーや責任感も感じました。試合で使ってもらっている以上やらなきゃいけないという使命感もすごく意識した時期で、やはりこの出会いも大きかったです。

2000年のシドニー・オリンピック代表や、同年のアジアカップではA代表も経験し、トルシエ監督からも刺激を受けました。今まで出会ったことのないような感情豊な人でしたけど、自分の殻を破るためにもと、前向きに捉えることができました。僕の特長も分かってくれていて、上手くいかない時に「いつものお前のプレーで良い」と言ってくれたり、もちろん的確なプレーのアドバイスもありました。

監督がどう思っているのか、コーチがどう思っているのか。小さい頃から競争が激しいなかで、コミュニケーションをとってくれたり、ちょっとした一言で、ものすごく心が助かって前向きになれることもすごくあって、人にも恵まれたと思っています。

長くプロで活躍できるような選手になってもらいたい

僕が指導者を目指したのは、アバウトですけど30過ぎから。深く考えていたわけではないですが、引退後には教えたい、指導したいと思っていたんです。それで実際に引退した時に、運よくというか、コーチの話をガンバ大阪から打診されて、現在の仕事に就いたという流れです。

現役時代から若手にアドバイスする機会もありました。年齢が上になるにつれてアドバイスの仕方というのは考えながら、特定の選手にということはないですが、ワンプレーごとに、グラウンドの上でコミュニケーションをとっていました。

レイソルの時はタニ(大谷秀和)と組むことが多かったのですが、何を言っていたかは覚えていませんね。30歳前後だったガンバでは、ユースから宇佐美貴史、井手口陽介、堂安律といった選手たちが上がってきた時に、いろいろと話すことを気にかけてやっていました。

具体的にどういう監督を目指して、こうなりたいということはなくて、それが良いのかどうか今は分かりませんが、選手の能力を伸ばせる監督、指導者になりたいですし、勝つことと魅せることは、両極端にあるのかもしれませんが、指導者になった以上はそれを目指していきたい。かなり難しいことだと思いますけどね。

そして、教え子たちに目指してほしいプロの姿としては、一つは、長くプロで活躍できるような選手になってもらいたい。

長くやるには、試合に出続けないといけない。試合に出続けるには、身体のケアが必要ですし、なにより試合で負けていたら代えられてしまう。そのため、勝ち続けなければいけません。勝つためにどうしなければいけないかと常に考え、全てにおいて負けず嫌いで、常に向上心を持っている選手になってほしいです。

もう一つは、僕がユースからプロに上がる時に言われた、「お金を払ってでも見たいと思える選手」になってほしい。魅せられる選手、ファンから見たいと思える、応援したいと思えるような選手を育てていきたいと思います。

僕はコツコツやっていくタイプなので、しっかり指導者の勉強をして、今できることを積み重ねていって、その先に監督というものが見えてくればいい。今は小さい頃にプロになりたいと思っていたように、漠然とした夢としてトップチームの監督というのを考えています。

【著者プロフィール】

明神智和(みょうじん・ともかず)/1978年1月24日、兵庫県出身。シドニー五輪や日韓W杯でも活躍したMF。黄金の中盤を形成したG大阪では2014年の国内3冠をはじめ数々のタイトル獲得に貢献。現在はガンバ大阪ユースコーチとして活躍中。また、「初の著者『徹する力』を2月26日に上梓した。

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