Jリーグのどこへ行ってもハズさない。超優良だった外国人選手ベスト5
シーズンオフのJリーグでは、選手の移籍が大きな話題のひとつとなる。しかし、その対象は日本人選手ばかりとは限らない。外国人選手の中にも、Jクラブ間での移籍を選択する選手は当然いる。
それどころか、外国人選手のほうがある意味でドライに移籍を決断するため、前のシーズンにブレイクした選手があっさりと別クラブへ移ってしまうケースも少なくない。
海外クラブから新たにやってくる外国人選手の場合、獲得するクラブにとってはよくも悪くも未知の部分が大きいが、すでにJリーグでの実績がある選手であれば、どれだけ活躍できるかがある程度読めることも、そうした動きを後押しするのだろう。
そこで、Jリーグの歴史をさかのぼり、複数のクラブで活躍した外国人選手、いわば「どこへ行ってもハズさない助っ人」を振り返ってみたい。
ただし、現在もガンバ大阪でプレーするパトリック(ガンバ大阪、サンフレッチェ広島)の他、過去にはウェズレイ(名古屋グランパス、広島)、エジミウソン(アルビレックス新潟、浦和レッズ)など、2クラブで目立った活躍をした選手は多いが、ここでは「どこへ行っても」という点をより重視し、(主にJ1の)3クラブ以上で活躍した選手に絞ることにする。
外国人選手というと、やはり活躍が目立つのはFWの選手である。過去に何人もの外国人選手が得点王を獲得しているように、各クラブにとっては最も”助っ人依存度”が高いポジションだと言えるだろう。
そんななか、まず名前を挙げたいのは2016年のJ1得点王、レアンドロだ。
2005年に大宮アルディージャで日本でのキャリアをスタートさせたレアンドロは、途中日本を離れた時期もあるが、2020年の東京ヴェルディまで6クラブで通算14シーズンプレーした。
レアンドロがJリーグにその名をとどろかせたのは、来日2年目の2006年のこと。J2のモンテディオ山形で23ゴールを叩き出し、翌2007年にヴィッセル神戸へ移籍。1年目から15ゴールを決めると、2009年から移籍加入したG大阪でも、在籍した3年(2009年、2012年、2013年)すべてでふた桁ゴールを記録している。
その後、2014年は柏レイソルで過ごし、2015年途中に神戸へ復帰すると、2016年には19ゴールを挙げてJ1得点王を獲得。体は小さいながらもゴールセンスにあふれた点取り屋は、J1だけでも3クラブで5シーズンふた桁ゴールを記録した。
同じFWのバレーもまた、レアンドロに比べるとJリーグでのプレー年数は長くなかったが、記録以上に記憶に残る点取り屋だった。
レアンドロ同様、大宮で”Jリーグデビュー”したバレーは、大宮に在籍した3年(2001年、2003年、2004年)はいずれもふた桁ゴールをマークして計50ゴールを量産。2005年、同じJ2のヴァンフォーレ甲府に移籍すると、21ゴールを挙げたばかりか、柏とのJ1昇格プレーオフでダブルハットトリック(6点)を記録し、Jリーグ史に残る大きなインパクトを残すとともに、甲府をJ1初昇格に導いた。
甲府でのJ1最初のシーズンも、14ゴールを記録。翌2007年にG大阪へ移籍し、早速20ゴールを挙げ、2008年にはシーズン途中で中東移籍となったにもかかわらず、10ゴールという結果を残した。何と言ってもダブルハットトリックの印象が強いバレーだが、コンスタントな活躍を見せたストライカーである。
また、FW以外で言えば、G大阪などで長く活躍したシジクレイが代表格だ。空中戦の強さと高いボール奪取能力で、センターバックやボランチとして活躍した選手である。
1999年、J1の京都サンガ入りしたシジクレイは、16クラブ中(年間で)12位と低迷したチームに合って、29試合出場で4ゴールを記録。上々のデビューシーズンを過ごすと、2000年のJ2大分トリニータを挟み、2001~2003年は神戸で、2004~2007年はG大阪で、2008~2009年は再び京都で、J1クラブで通算10シーズンプレー。その間には、2005年のG大阪でJ1初制覇に大きく貢献するなど、中心的役割を果たした。
その結果、積み上げたJ1通算289試合出場は、外国人選手としては歴代2位(昨季終了時)の偉業である。
そしてもうひとり、FW以外の選手で忘れてはならないのが、草創期のJリーグ大活躍したサントスだ。
ジーコ、リトバルスキーら、錚々たる外国人選手が顔をそろえた誕生当初のJリーグにあって、サントスは決して有名選手ではなかった。だが、鹿島アントラーズのボランチとして、豊富な運動量と的確な判断で中盤を支えるプレーは高い評価を受け、鹿島の1993年ファーストステージ制覇に貢献。栄えあるJリーグ初代ベストイレブンにも選ばれている。
1995年のシーズン途中に清水エスパルスへ移籍して以降は、2000年まで清水でプレー。1960年生まれのサントスは、2001年に神戸へ移籍し、40歳を過ぎても現役でプレーし続けた。現在、三浦知良が更新し続けているJリーグ最年長出場記録も、当時はサントスが記録保持者。長年の功績が称えられ、2002年Jリーグアウォーズでは功労選手賞を受賞している。
さて、ここまでJリーグ史にその名を刻む4人の外国人選手を挙げてきたが、やはり「どこへ行ってもハズさない」という点で言えば、おそらく彼の右に出る助っ人はいないのではないだろうか。
2008年にJ1得点王とMVPの個人二冠を獲得した、マルキーニョスである。
2001年セカンドステージから東京ヴェルディに加入し、Jリーグでの第一歩を印したマルキーニョスは、2003年に横浜F・マリノスの2ステージ完全制覇、2007~2009年には鹿島の3連覇に貢献。点を取ることはもちろん、前線からの守備も忠実にこなす献身的なストライカーは、”チームを勝たせるFW”として出色の働きを見せていた。
2010年を最後に鹿島を離れてからも、横浜FMと神戸で3年連続ふた桁ゴール(2012~2014年)を記録。通算でおよそ15シーズンに渡り、Jリーグで高い決定力を発揮し続けた。J1通算152ゴールは外国人選手としては歴代最多。日本人選手を加えても歴代6位。また、J1通算333試合出場も、外国人選手としては歴代最多の金字塔だ。
必要とされればどこへでも駆けつけ、期待された仕事をこなす――。ブラジルからやってきた”必殺仕事人“は、もはや外国人助っ人という枠には収まらない、Jリーグを代表するレジェンドである