【衝撃の降格】キングカズ、遠藤保仁、松井大輔、パクチソン…「2000年の京都サンガ」を知っていますか?
京都サンガにまつわるニュースを、このところよく目にする。
京都でプロキャリアをスタートさせた元日本代表MF松井大輔が、横浜FCからベトナム1部のクラブへの移籍を発表した。残り1試合となったJ2を戦っているチームからは、實好礼忠監督の退任と曺貴裁監督の就任が発表されている。
今から20年前の2000年に京都サンガは世間の注目を集める。カズこと三浦知良への戦力外宣告だ。
得点ランキング3位タイの17ゴールをマークし、2月から6月にかけて日本代表に招集されてもいた。33歳にして力強いパフォーマンスを披露しながら、チームのJ2降格に伴って非情の宣告を下したのだった。
カズの去就だけではない。2000年の京都サンガは、意外なほど興味深いチームである。
キャプテンマークを巻いてチームの先頭に立った“キングカズ”の後方には、のちにワールドカッププレーヤーとなる選手が3人もいた。遠藤保仁と松井、それに朴智星だ。
のちに国を背負うワールドカッププレーヤーたち
遠藤はプロ3年目だった。高校卒業とともに入団した横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併され、99年に京都の一員となった。新天地ではダブルボランチの一角を担い、この年はチーム2位のリーグ戦29試合に出場している。
当時からプレーに力みはなく、さりげない雰囲気から鋭いパスを繰り出していた。アシストの一つ手前のパスが多かったなかで、カズのゴールを演出するラストパスも供給している。
松井はプロ1年目のルーキーだった。遠藤と同じ鹿児島実業高校から加入した攻撃的MFは、複数のオファーのなかから「カズさんがいるということもあって」、生まれ故郷のクラブを選んでいる。
当時のJ1リーグは16チームによる2ステージ制で、30試合で全試合出場である。シーズン開幕直後の第2節でデビューを飾った松井は、リーグ戦22試合に出場した。スタメンは14試合を数えた。高卒1年目としては及第点が付くだろう。
朴は第2ステージの開幕節にデビューした。松井より1学年上の19歳は、韓国の大学からJリーグに飛び込んできた。母国では年代別代表に招集されていた逸材である。99年7月に国立競技場で行われたU-22の日韓戦では、両チームを通じて最年少の18歳で先発している。
ちなみにこの試合の朴のポジションは左サイドバックで、日本では遠藤が稲本潤一とダブルボランチを組んで出場していた。
メンバーはすごいのに“勝てない”
元日本代表監督の加茂周に率いられた00年の京都は、第1ステージを2勝1分12敗の最下位で終えた。12敗のうち7敗までが、1点差負けだった。下位に沈むチームの典型的な負けパターンである。
5節の名古屋グランパス戦は、83分の失点で0対1の敗戦となった。翌6節は延長後半終了間際の118分に被弾し、柏レイソルに1対2で屈した。この時点で1勝にとどまり、15位に低迷する。
続く7節は、14位の川崎フロンターレとの下位対決だった。前半のうちに2失点し、66分に松井のプロ初ゴールで1点差に詰め寄るものの、87分にCB手島和希が2度目の警告で退場処分を受けてしまう。1対2で押し切られた。
川崎F戦後の加茂監督は「いつものことながら、攻め込むけれど点が取れない。残念ながら決め手がなく、勝ちにつながっていない」と嘆いた。翌8節は清水エスパルスに、10節ではアビスパ福岡に、延長Vゴールで屈した。
キャプテンとしてチームを牽引するカズは、「最後の最後で負けるこういう試合が続くと、なかなか抜け出せないのは経験から分かっている。どこかで流れを変えないと」と危機感をにじませていたが、14節でもジュビロ磐田に延長Vゴールで敗れ、浮上のきっかけをつかめないまま第1ステージが終わってしまった。加茂監督は解任され、ヘッドコーチのゲルト・エンゲルスにチームの再建が託された。
望月重良と平野孝を獲得するも
ドイツ人指揮官のもとで挑んだ第2ステージは、立ち直りの兆しを見せる。1勝2敗で迎えた4節では、カズの延長Vゴールで第1ステージ14位の福岡を退けた。
7節からは即戦力がピッチに立つ。7月に名古屋グランパスを解雇された望月重良と平野孝を獲得したのだ。27歳の望月はフィリップ・トルシエのもとで日本代表に選ばれており、26歳の平野は98年のフランスW杯代表である。J1残留への切り札としての補強だった。
第2ステージは8月19日の10節を最後に中断された。9月にシドニー五輪が開催され、U-23日本代表がベスト8に食い込んだ。翌10月には日本代表が、アジアカップ優勝を成し遂げる。京都からは遠藤がシドニー五輪代表のバックアップメンバー入りし、望月がアジアカップに出場した。
11月8日に再開され、その2試合目に京都は鹿島アントラーズと激突する。エンゲルス監督は遠藤、望月、朴、平野を中盤で起用し、カズと松井に2トップを組ませた。
将来性豊かな若手と経験を積んできた中堅、それに絶対的存在たるキングの競演である。魅力ある布陣と言うことができたが、鹿島はこの年の年間王者に輝くチームだ。中田浩二、鈴木隆行、本山雅志に得点を決められ、1対3で敗れた。
翌節はジュビロ磐田に2対3で競り負けた。1分にブラジル人FWヘジス、29分にカズがネットを揺らして2対0とするが、ラスト15分からの3失点で試合を引っ繰り返されてしまった。試合後のカズは険しい表情を浮かべ、絞り出すように語った。 「こういう試合を取らないと、上には行けない」
第2ステージは6勝1分8敗まで持ち直したが、年間総合順位で15位に終わった。最下位の川崎Fとともに、京都はJ2へ降格してしまうのである。
2020年京都サンガ降格の《その後》
クラブから0円提示を受けたカズは、ヴィッセル神戸に迎えられた。望月もカズと同じ決断を下し、平野はジュビロ磐田の一員となる。
遠藤はガンバ大阪のユニフォームを選んだ。翌02年に監督となる西野朗のもとで、ガンバの中心選手として一時代を築いていく。
01年も引き続き京都でプレーした朴と松井は、雌伏の時を経てヨーロッパへ新天地を求める。朴は02年の日韓W杯での活躍を評価され、03年元日の天皇杯優勝を置き土産にPSV(オランダ)へステップアップした。松井は04年アテネ五輪でU-23日本代表の背番号10を背負い、同年9月にフランス2部のル・マンへ移籍した。
かくも魅力的なタレントが集ったのは、ちょっとした奇跡と言っていいだろう。00年の京都は、夢のあるチームだった。彼らの集結が1年でも遅かったら、あるいはもう1年続いていたら、Jリーグの歴史は変わっていたかもしれない。