鉄人・明神智和が引退を決断。 プロ24年間「大事にしてきた言葉」とは

引退、明神智和インタビュー(前編)

今シーズン限りでの現役引退を12月2日に発表。そこからおよそ1週間後、明神智和は、J3最終節のロアッソ熊本戦で、先発メンバーとしてホームの長野Uスタジアムのピッチに立った。

24年のプロサッカー生活を締めくくるラストマッチ。引退を決意した時から、「最後まで、いつもどおりに準備をし、これまでの試合と変わらない気持ちでピッチに立つ」と決めていたが、さすがの”鉄人”も、胸のざわつきは抑えられなかった――。

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「引退を決めてから、いつもどおりに毎日を過ごしてきましたが、自分の中ではいろいろと思うこともあって、正直、この1週間は、平常心を保つのが非常に難しかったように思います。そのせいか、試合も最初の10分間くらいはあたふたしてしまいました(苦笑)。

ただ、引退を決めた僕に限らず、今日の試合を最後に、志半ばでAC長野パルセイロを離れる選手もたくさんいるなかで、チームを代表して試合に出る以上は、しっかりと結果を出さなければいけないと思っていました。時間としては……思っていたより短かったけど(笑)、やり切ったという気持ち。

プロサッカー選手として、初めてJリーグの試合に出場した、浦和レッズとの1996年のJリーグ開幕戦は黒星スタートでしたが、最後は白星で締めくくれてよかった。チームメイト、スタッフ、寒いなか、最後まで応援してくださったファン、サポーターのみなさんに感謝します」

「引退」のふた文字が頭をよぎるようになったのは、9月の終わり頃だったという。今年で切れるはずだった契約の延長をクラブから打診されたなかで、自分と向き合い、答えを出した。

「近年は漠然と、『長野との契約がなくなった時点で引退しようかな』と考えていました。実際、契約としては、今年で切れるタイミングだったので、なんとなくですが、『今年は最後のシーズンになるかも』と思っていた気がします。であればこそ、今シーズンを迎えるにあたっても、オフシーズンにもう一度自分を鍛え直し、この一年に懸けてきました。

シーズンが始まってからも……これはある意味、どのシーズンもそうでしたが、目の前の練習、試合に対して、常に全力で向き合ってきました。今年は試合に出られないことも多かったですが、出られない時には『チクショー!』『試合に出たい!』という悔しさをエネルギーにして戦ってきたし、チャンスをもらったら、そのチャンスに全力で向き合い、『勝ちたい』という一心で戦ってきました。

そうしたなかで、長野から来年のオファーを頂いた時に、この一年と同じことを来年もまたできるのか、体も心もしっかり戦えるのか。チームを勝たせるための力になれるのか。お金を払って見に来てくださる人たちに、応えられるものをピッチで示せるのか、を自分なりに考え『求められるものに応えられない』という結論に至りました。それが、引退の理由です。

柏レイソルユース時代、コーチに言われた言葉があります。『プロというのは、お金をもらってする仕事。お金を払って、見に来てくださる人たちに対して、その”お金”にふさわしいプレーを見せなければいけない』。24年間、僕はこの言葉をずっと大事にしながら戦ってきました。だからこそ、来シーズン、プロとして戦える状態にないのなら、100%で練習に取り組めないのなら、ユニフォームを脱ぐべきだと考えました。

寂しさはありますが、毎日をやり切ってきたので、後悔はないです。1つ心残りがあるとするなら、この長野に来て、J2昇格だけを考えて一年、一年を戦ってきたからこそ、それが達成できなかったこと。そこに対する申し訳なさは、すごくあります」

1996を皮切りに、柏で10年、ガンバ大阪でさらに10年、名古屋グランパスで1年、長野で3年。そのキャリアは、24年に及んだ。

柏時代の2000年にはシドニー五輪を戦い、2002年には日本代表として初めてワールドカップの舞台に立った。当時、日本代表を率いていたフィリップ・トルシエ監督には、その堅実で、勤勉なプレーを評価され、「3人の個性派と8人の明神がいれば、チームは勝てる」と独特の言い回しで賞賛を受けたことも。とはいえ、当の本人はワールドカップのことを、ほぼ覚えていないと言う。

「ワールドカップに出場したときは24歳でしたが、正直、自分のプレーのことで精一杯で、周りを見る余裕がなく、とにかくチームのために、自分の力を出すことだけを考えていました。日本で初めて開催されたワールドカップで、日本中が盛り上がっているのはテレビでも見ていましたが、あの1カ月のことは、正直あまり記憶にないんです。そのくらい興奮状態だったんだと思います。

ただ、今になって振り返ると、自分の国でワールドカップが開催されて、その代表として日の丸がついたユニフォームを着てプレーできたのは、非常に名誉で、うれしいことだったし、すばらしい経験をさせてもらったと思っています」

人生初めての移籍は2006年。柏でも、ともに仕事をした西野朗監督が率いるガンバに移籍をした。その前年度、J2降格となった柏とは対照的に、J1リーグ初優勝を飾ったガンバへ――。

その重みを実感したのは、新シーズンを前に、同じタイミングで加入した加地亮や播戸竜二、マグノ・アウベスらとともに、当時の佐野泉代表取締役社長の部屋に呼ばれた時だ。

「今季は強化費に8億をかけた。キミたちにがんばってもらわなければ困る」

それに対して、「クラブの思いに応えるためにも、金額以上の利益をもたらさなければいけない」と胸に誓った明神は、クラブを離れる2015年まで”ど真ん中”で戦い続け、AFCチャンピオンズリーグ制覇や天皇杯連覇、そして2014年の”三冠”と、数々のタイトル獲得に貢献した。

当時、ホームスタジアムとして使用していた万博記念競技場のスタンドには、試合になると決まって『ここにも明神。あそこにも明神』というゲートフラッグが掲げられたもの。その言葉がどれだけ的を射ていたのかは、彼の隣でボランチを預かることも多かった、遠藤保仁(ガンバ大阪)の言葉からも伺い知れる。

「ミョウさんは、とにかく、縁の下の力もち。決して派手なプレーはしないけど、いてほしいと思ったら、やっぱりいて、危ないと思ったところにもいつもいた。試合中、同じピッチにいながら『ミョウさん、すげえ!』と思ったことは何度もある」

そして、2016年の名古屋を経て、2017年には長野へ――。初めてJ3リーグを舞台にした戦いにも、彼のサッカーへの情熱は褪せることなく、先に記した「1つ心残り」な部分を除いては、「幸せな3年間だった」と笑顔をのぞかせる。

「長野Uスタジアムという、本当に立派なスタジアムでプレーできて、たくさんのサポーターの前でプレーできて、幸せでした。長野のファン、サポーターはクラブにとても近い存在で、いつも彼らがスタジアムに入る時に歌ってくれるチャントが大好きでした。その声はいつも心に響いていたし、おかげでがんばれたこともたくさんありました。

このクラブは、地域の方やファン、サポーターと触れ合う時間もすごく多くて、その時間もうれしい記憶として残っています。練習終わりに差し入れで、リンゴやシャインマスカットをもらったり、山菜をもらったり、近所の方にはいつもたくさんの野菜をいただきました。そういう温かさに触れられたのは、選手としてだけではなく、1人の人間としてとても幸せでした」

(つづく)

明神智和(みょうじん・ともかず)1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。柏レイソルユース→柏レイソル→ガンバ大阪→名古屋グランパス→AC長野パルセイロ。1997年ワールドユース(現U-20W杯)出場(ベスト8)。2000年シドニー五輪出場(ベスト8)。2002年日韓共催W杯出場(ベスト16)。豊富な運動量と鋭い読みで相手の攻撃の芽を摘むディフェンシブハーフとして活躍した。

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