遠藤保仁が黄金世代のライバルを語る 「追い抜いてやろうと思っていた」

世界2位の快挙から20年……今だから語る「黄金世代」の実態第10回:遠藤保仁(1)
「最初はベンチスタートを覚悟していた」

1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会で、全7試合にスタメン出場を果たした遠藤保仁は、大会前、そう思っていたという。

前年の98年アジアユースでは、遠藤は2試合にスタメン出場したが、基本的にはボランチの稲本潤一と酒井友之の控えだった。その後フィリップ・トルシエが監督になり、99年2月のブルキナファソ合宿でも、主軸は稲本でキャプテンにも指名されていた。トルシエ監督の信頼が厚い稲本は、本大会を戦うレギュラーポジションを確実にしていたのだ。

だが、その稲本が大会前にヒザを負傷し、コンディション面で主軸としてプレーするのが困難になった。加えて酒井は右のウイングバックに、中田浩二はフラット3を機能させるために左センターバックにコンバートされ、小笠原満男はボランチよりも前線で起用されるようになった。そこでトルシエ監督が稲本の代役として白羽の矢を立てたのが、遠藤だった。

「運があったよね。イナ(稲本潤一)がケガしてなければ俺はベンチやった。ただ、プレーしていて、イナとかと特別に何か決定的な差があるとは感じていなかった。試合に出れば遜色なくやれると思っていたからね。大会はいいメンバーが揃っていたし、俺はコンディションも良かった。自信を持って大会に臨むことができた」

大会前、キャプテンを任された小野伸二は「優勝」を目標にしていた。だが、日本への期待はそれほど大きなものではなかった。前年にフランスW杯で3連敗を喫し、世界が遠いことを実感させられた中、遠藤をはじめ多くの選手が優勝を現実的に考えることができなかった。

「俺は(小野)伸二やイナのようにエクアドルで世界(95年U-17世界選手権)を経験していなかったからね。世界との距離感がわからなかったし、まだ試合に出られるかどうかもわからなかった。大会前は優勝までは考えられず、自分の力を試す大きなチャンスの場だと思っていた。1試合、1試合をこなしながら大会で世界を知り、徐々に上(優勝)を目指すって感じで考えていた」

自信を持って挑んだ大会だったが、初戦のカメルーン戦に1-2で逆転負けを喫してしまう。大事な初戦を落とし、「勝って勢いをつける」という目論見が外れたが、遠藤はこの試合が非常に自信になったという。

「カメルーン戦は負けたけど、やれるなって思ったからね。相手の身体能力の高さとパワーにやられたけど、内容は何ら問題なかった。全体的に余裕を持って戦えたし、正直、勝ってもおかしくなかった。むしろ勝たないといけない内容だったんで、負けたけどこれからに自信を持てた試合やった」

日本は次戦のアメリカ戦に勝って(3-1)調子を上げ、イングランドを完封(2-0)してグループリーグを突破。ベスト16(決勝トーナメント1回戦)のポルトガル戦では、苦戦したがPK戦の末勝利した(1-1、PK5-4)。ベスト8(準々決勝)のメキシコ戦は、遠藤が「いちばん印象に残っている」という試合で2-0の完封勝利。これまでベスト8止まりだったこの大会での新たな歴史の扉を押し開けると、準決勝のウルグアイとの激戦を制して(2-1)決勝進出を果たした。

「決勝まで行って思ったのは、勝ち進んでいく流れを作るのは、自信なんだよね。ポルトガル戦は苦しんで勝って勢いに乗り、メキシコ戦はウチらがいちばん波に乗っていたときで最高の勝ち方ができた。ウルグアイ戦は攻められたけど、どの試合もけっこういい内容で相手を倒してきたからね。それぐらいやれている中、接戦をものにして結果を出せば自信がさらに膨らみ、勢いが出てくる。それにこんな悪い環境の中でサッカーをすることはもうないだろうなと思っていたし、その中で結果を残したのも自信につながった」

決勝まで進出できたのは、個々のタレントの力が大きいのもあった。

小野は98年フランスW杯に18歳で出場した。稲本らはチームでレギュラーとしてプレーしていた。しかもその力をどんな状況でも発揮できる、気持ちが強い選手が多かった。

「俺らの世代は、人に負けたくないという気持ちがとても強かった。俺も試合に出たいと思うけど、チーム内にはイナ、酒井(友之)、(中田)浩二、(小笠原)満男がいて、代表に行っても試合に出られないのがしょっちゅうだった。それを超えていかないといけないって思っていたし、ワールドユース中もみんなに負けたくないという気持ちがすごく強かった。終わってからはさらに強くなったね」

チームメイトは仲間だが、強力なライバルでもあった。そう思えるのは、お互いの良さと違いを知り、実力が拮抗していたからでもあろう。ただ、遠藤がチームメイトの中でひとりだけ別格だと感じていた選手がいた。それが、小野だった。

「伸二は、実績、実力、人気ともにズバ抜けていた。高校のときから注目されていて、(浦和)レッズに入ってW杯にも出場して、順調にステップアップしていた。キャプテンシーもあって、非の打ちどころのない選手やった。でも、どこかで追い抜いてやろうという思いもあったね。直接的なライバルはイナや浩二だったけど、結局みんなよりもいいパフォーマンスを見せないと試合に出られないというのは一緒なんでね」

ボランチで言えば、遠藤は稲本や中田、小笠原、酒井との競争になるが、面白いのはそれぞれタイプが違うことだ。たとえば稲本は体の強さを活かしてボールを奪い取り、前への推進力があるタイプ。遠藤は守備に不安があったが、攻撃面でのアイデアが豊富で、技術が高く、視野が広かった。ワールドユースではその能力を最大限に活かし、ボールを前後左右にさばいてリズムを作った。

「あのポジションで、あれだけのメンバーが前にいれば、そうなるよね。俺のところで別に難しくする必要はないでしょ。ブスケツ(バルセロナ)みたいにワンタッチ、ツータッチでどんどん回していく。よくさばいたなって思うもん(笑)。ワールドユース以降、自分がボールを持って攻撃の形を作るようになっていったけど、それは、みんながボールを付けて俺を経由するんで、そこでアクセントを加える感じになったから。守備的なボランチが1人入るようになったんで、そのボランチよりもひとつ前でプレーするようになったのも大きかった。でも、今、またワンボランチをやれって言われたら、ワールドユースのときのプレーに戻るだろうね」

ワールドユースで配給役をこなせたのは、技術が高いのももちろんだが、個性が強い攻撃陣にあって「自分が」という我を抑えられる遠藤だからこそできたともいえる。

チームはカメルーン戦の敗戦以降、勝ち続け、決勝にたどりついた。そして、ついにスペインと対峙することになる。

「決勝に行けたことに違和感はなかった。日本は強かったからね。でも、決勝で戦ったスペインは、ズバ抜けていた。そりゃ勝ちたいと思ったけど、技術も戦術も1枚も2枚も上でボールがまったく取れなかった。絶望的な感じの差じゃないけど、『そうかー、そう来るかぁ、うまいなぁ』って感じ(笑)。大会で唯一、こいつらには勝てないと思ったね。だから、準優勝は妥当な結果やと俺は受け止めていた」

負けた悔しさはあった。だが、横浜フリューゲルス時代に大きな影響を受けたカルロス・レシャック監督が指導していた、バルセロナ育ちのシャビたちに圧倒されたことは、むしろ遠藤を清々しい気持ちにさせていた。すばらしい監督の国のチームが、完全に自分たちを上回っていたのだ。

遠藤は、全7試合出場と準優勝という経験を土産に日本に帰国した。

フリューゲルス消滅から数カ月、遠藤にとって「準優勝」は自らのサッカー人生が開けていくキッカケになりそうだった。
(つづく)

遠藤保仁えんどう・やすひと/1980年1月24日生まれ、鹿児島県出身。ガンバ大阪所属のMF。日本代表国際Aマッチ152試合出場(歴代1位)。鹿児島実業高→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ
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