2016年 吹田スタジアムの価値<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

「建設費を寄付でまかなう」というアイデア

行政だけに頼ることなく、寄付金によって建設費を賄うという新スタジアム建設プロジェクト。その実現にあたり、元ガンバ大阪社長の金森喜久男がまず着手したのが、「同志」を得ることであった。単なる協力者ではない。サッカー界と経済界で、それぞれ大きな影響力を持つ人物である。金森がまず訪ねたのが、JFA(日本サッカー協会)最高顧問の川淵三郎。「サッカー界と経済界が一緒になって民間の寄付でスタジアムを造りたい」という自らの考えを開陳したところ、その場で「よし、分かった。一緒にやろう。Jリーグを作るときも胸躍ったが、これからはこのやり方ですね!」と快諾を得ることができた。2008年7月のことだ。

金森はさらに、パナソニック以外のクラブの大株主(関西電力、大阪ガス、JR西日本)の賛同を得て、いよいよ本丸に乗り込んでゆく。当時の関西経済連合会会長、下妻博の元に赴いたのは同年8月のこと。しかし最初の訪問はさんざんなものに終わった。「100億以上集める? ばかなことを言うな! 集まるわけないだろう」と冷たく応対され、金森は「すみません、またあらためて来ます」と返すのが精いっぱいだった。それから2週間後、再び訪問の機会を得る。「サッカー界の協力は取り付けていますから、ぜひお願いします」と切り出す金森。すると下妻は、あるものを広げて見せた。

「それは大阪城が描かれた絵だったんですね。『お前な、知っとるか? 大阪城の天守閣は、昭和3年(1928年)に寄付によって作られたんや』とおっしゃるんです。大阪城だけでなく、道頓堀にしても、淀屋橋にしても、すべて寄付でまかなわれたと。その上で下妻さんは『関西はそういう文化なんや。気風に合っているかもしれんから、やろうか!』と言っていただきました」

結果として金森は、下妻の協力を取り付けただけでなく、「スタジアムの建設費を民間から寄付してもらう」という、関西の商人文化に根差した方法論まで伝授してもらうことになる。サッカー界と経済界による共闘、そして寄付による建設費捻出というプロジェクトの根幹は、この時点で確定した。それにしても、一度は冷たい態度をとっていた下妻はなぜ、金森の願いを聞き入れたのだろうか。金森は「私の腹が本物かどうか試されたのではないか。一緒にやる価値があるかどうかご覧になっていたと思います」と分析した上で、「おそらく中村(邦夫)さんが、こっそり金森を応援してやってほしいと言われていたのではないでしょうか」と推測する。パナソニックの会長だった中村は、かねてより金森にとっては師と仰ぐ存在であった。

「私がガンバの社長になったとき、中村さんは『いちいちウチに報告せんでいい。その代わり(クラブとして)独立することを考えなさい』とおっしゃいました。親会社なんて、いつ経営が不安定になるか分からない。だからこそクラブは地域に根差した存在として、独立しなければならないと。ですから、私が13年に(J2降格の責任をとって)社長を辞める時を除いて、会社にも中村さんにも報告することはほとんどしていませんでした。この姿勢は今、反省していますが」

プロジェクトに影響を与えた建設費の高騰

09年にJリーグで立ち上がったスタジアムプロジェクトは、その後どうなったのか。プロジェクトリーダーの佐藤仁司がまず着手したのが、Jリーグ規約のスタジアム要件の改定。当人いわく「09年当時、Jリーグのホームスタジアムの要件は全部で68項目。それを10年に182項目にまで引き上げました」。と同時に「競技場」という文言を排して「スタジアム」に統一した。小さいようで、これは大きな変化だ。「国体で作ってもらった競技場」ではなく、「プロの興行に耐えうるサッカースタジアム」。それが、これからの時代に向けてJリーグが提唱するホームスタジアムの基本的な考え方であった。

この他にも、新スタジアムを検討しているクラブや自治体に積極的に出向いてはアドバイスや提言を行い、欧州へのスタジアム視察ツアーも2回実施している。こうした地道な活動を積み重ねることで、わずかずつではあるがスタジアムプロジェクトの理解者は増えていった。佐藤はその後、吹田スタジアムの選定委員として金森と出会い、両者は「同志」と呼べる関係性を築くことになる。もっとも当人によれば、G大阪の新スタジアム構想は、金森の社長就任以前から耳にしていたそうだ。

「あれは06年でしたね。ちょうどACL(AFCチャンピオンズリーグ)のサポートで私がチームに帯同していたとき、金森さんの前任の社長である佐野泉さん(故人)が熱っぽく語っておられたことをよく覚えています。よく経営者が変わると、会社の方針が微妙に変化することがありますが、ガンバさんは違いましたね。佐野さんの想いを具現化し、ぐっとアクセルを踏んだのが金森さんだったと私は思っています」

そんな経緯もあって、吹田スタジアムの進捗は佐藤にとっても大いに注目するところであった。とりわけ今回のプロジェクトは、「募金の額によって設計のグレードが変わっていく」という方針であったため、最終的にどのような着地点となるのかについて注視していたという。実は当事者である金森はこの時、当初の想定よりも建設費が高騰したことに苦慮する日々を送っていた。

「実は、われわれの最初の(建設)目標金額は125億でした。それで(募金を)スタートする時の段階には、110億円くらいのめどは立っていたんです。ところが11年3月の東日本大震災で、状況ががらりと変わってしまいました。震災の影響で建設労働者の人件費が、そして円安によって鉄とセメントの価格が、いずれも高騰したんです。ですから、途中で目標金額を140億円に変更しました」

目標金額を15億円上積みする一方、設計についても見直しを余儀なくされた。そのひとつが、外壁を塗装せずにコンクリートのままにするというアイデア。当初は苦渋の決断だったかもしれないが、スタンドの座席椅子がG大阪のクラブカラーであるブルーで統一されており、結果的にクールな全体感に仕上がった。余談ながら、施工を担当した竹中工務店総括作業所長の中野達男は『ガンバTV』という情報番組にゲスト出演した際、コンクリートむき出しのスタジアムの外観を「すっぴん美人」と評している。実に言い得て妙であるといえよう。

スタジアムづくりはあくまでも「カスタマーファースト」

15年3月、スタジアム建設募金団体が寄付金の総額を発表した。法人で約99億5000万円、個人で約6億2000万円。これにtotoの助成金と国交省助成金を合わせた35億1000万円が加わり、スタジアムの建設資金およそ140億円を何とか確保することができた。「川淵さんと下妻さんには、多くの企業を訪問いただいたり、手紙を出していただいたり、電話を入れて頂いたりと本当にありがたかったですね」と金森は語る。その一方で見逃せないのが、totoの助成金であろう。「スタジアム建設で、国から補助が出たことの意義は大きかった」と語るのは佐藤である。

「つまり、当事者以外からも支援がもたらされたということですね。新設のスタジアムで、totoの助成金を受けた第1号が吹田、そして第2号が北九州(ミクニワールドスタジアム)です。北九州に関していえば、自治体が熱心だったこともありますが、12年のクラブライセンス導入も大きかったと思います。現状の(本城)陸上競技場のままであれば、J1ライセンスは交付されない。それならば(J1のゲームも開催できる)新しいスタジアムを作ろうと。J2ライセンスが不交付となった鹿児島(ユナイテッドFC)でも、新スタジアム建設の署名活動が始まりました」

ライセンスの件に関しては「クラブや自治体に対して厳しすぎるのではないか」という意見があるのも事実だ。しかしスタジアムプロジェクトの実現のためには、周囲から恨みごとを言われてもなお、基準のハードルを上げる必要性があるというのがJリーグの下した判断だった。プロジェクト発足後、南長野(15年)、吹田(16年)、北九州(17年)さらには京都の亀岡にも19年末に新スタジアムが完成予定。さすがに「10年で10個」とはいかないが、それでも「新しいスタジアムを作るなら球技専用で」という機運は、間違いなく全国的な広がりを見せている。

おそらく吹田スタジアムは、日本のスタジアムづくりの新たなスタンダードとなってゆくことだろう。一方で今回の事例は、さまざまな教訓を残したとも言える。現在、大学でスポーツビジネスとマーケティングを教えている金森は、自身の専門領域から見ても示唆に富む事例であったと指摘する。

「私は『価値』という言葉をよく使うんですけれども、以前の陸上競技場と今の吹田スタジアムとでは、同じ試合でも価値を完全に変えてしまったと思っています。われわれは『スポーツを生産している』、観客は『スポーツを消費している』。生産者と消費者というこの関係性に、事業者は早く気が付く必要があります。最近、東京五輪に関連して『アスリートファースト』という話がよく聞かれます。でも私は、これからは違う考えを持つべきだと思っています。それは『カスタマーファースト』。顧客中心に考えないと、ビジネスとして絶対に成功しませんから」

思えば金森自身も、そして彼がプロジェクト成功の功労者に挙げた3人も、業種は違えどもビジネスの世界で功成り名遂げた人物ばかりである。スタジアムづくりの根底に「カスタマーファースト」があったのは至極当然のことだったのかもしれない。取材を終えた今、新国立競技場をはじめとする2020年の競技施設に決定的に欠落していたものを、あらためて痛感する。

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