【黄金世代】第2回・遠藤保仁「サッカー人生を大きく変えた、1999年の躍動」(♯2)

無理やろ、このメンバーで試合に出るのはって。

 鹿児島実では1年時から頭角を表わし、九州では「遠藤3兄弟」の末弟として、サッカー関係者の間では知らぬ者がいないほど有名だった。

それでも、年代別の日本代表とは縁遠かった。ようやくお呼びがかかったのは、市川大祐や飯尾和也らひとつ下の世代で構成されたU-16日本代表から。早生まれだったため高2のときに招集を受けたが、それでも、公式戦出場は果たせなかった。

 初めて日の丸を背負って臨んだ大会が、清雲ジャパンでのSBSカップだった。あわや「サクラジマ」という仇名が定着しかねない事件が起きた大会だ。ただひたすら、同年代のレベルの高さに舌を巻いたという。

「とにかく、最強。当時もいまも、この言葉しか思い浮かばない。

もう最初に入ったときは、無理やろ、このメンバーで試合に出るのはって思った。あの頃はね。そこから、コイツらを負かすにはどうしたらいいかをすごく考えるようになった。俺の立場からしたらそれしかないよ。より努力しよう、より自分の良さを出そう、アイツらにないものを出すしかないって。

だからみんながライバルやった。シンジ(小野伸二)は知ってたけど、タカ(高原直泰)とかミツオ(小笠原満男)は知らんかったんで、練習やゲームで初めて見て、『あ、なんだこれ。すげえ巧い』って。本当に、よくもあれだけ固まったよね。次から次に出てきたからさ。バン(播戸竜二)とかカジ(加地亮)も。自分の世代ってすごいなって当時から誇らしかった。いいライバル関係を築けてたと思う」

とりわけ、ボランチは逸材の宝庫だった。

クラブユース界の第一人者である稲本潤一がいて、U-17世界選手権を経験した酒井友之、そして秋以降は、帝京で名を揚げた中田浩二も幅を利かせていた。「特別意識してたわけじゃないけど、やっぱり負けたくないって気持ちは強かった」と明かす。

前にシンジとミツオ。むっちゃ楽しかった。

 つねにグループの輪の中にいて、コンスタントに試合出場を重ねていた遠藤だが、アジアユースは予選も本大会もサブメンバーの域を出ない。1998年の年末、ワールドユースを目前に控えて指揮権がフィリップ・トルシエに移っても、その立ち位置は変わらなかった。

だが、状況は一変する。2月のブルキナファソ遠征から帰国してまもなく、稲本がJリーグで怪我を負ってしまう。どうやらナイジェリアでの本大会には万全のコンディションで臨めそうにない。トルシエが3-1-4-2システムのアンカーに迷わず抜擢登用したのが、遠藤だった。

大会後、わたしはトルシエに訊いた。なぜ酒井を右サイドから中央にスライドさせるのでも、中田を3バックからボランチに配置転換するのでもなく、遠藤に託したのか。フランス人指揮官は手短にこう回答した。「イナの代わりはヤットしかいない。常に最高の準備をしていたからな」と。

背番号11は、躍動した。

「イナが怪我して、個人的にはラッキーな形ではあったけど、出してもらえたらやれる自信はあった。前(2シャドー)にシンジとミツオだもん。むっちゃ楽しかったよ。フラット3で、チーム自体が超攻撃的だった。パスがどんどん回って、みんなでイメージを共有できてた感じ。

守備は規律がすごく多くて大変なんだけど、それでもみんなで連動して組織的に動けてた。俺らは大会前からそんなに注目されてなかったから、本当に自由に伸び伸びやれたよね。どうしてもシンジにマークが集中するから、そこを逆手に取って、空いたスペースをみんなで上手く活用した」

遠藤のハイライトは、ラウンド・オブ16のポルトガル戦だ。48分、永井雄一郎のパスを受けた遠藤はゴール前20メートルの位置から右足を一閃。相手GKもノーチャンスな弾道で、ゴール右隅に先制点を突き刺した。

大舞台でも気負わず、淡々とタスクを遂行し、周りの個性を活かしながらみずからも活きる──。どの試合でも、普段着のヤットのままだった。

「もっとやれるんちゃうかなって、とにかく自信が付いた。余裕ができたというか、より周りが見れるようになったと思う。その後の自分のサッカー人生を考えたらすごく大きな大会だった。どっしり構えられるようになったから」

ただ、決勝で対峙したスペインには0-4と完膚なきまでに叩きのめされた。

「決勝はあんまり覚えてないんだけど、まあ、レベルが違った。ブラジルとアルゼンチンが強烈なのはイメージがあったけど、スペインのメンバーをそこまで詳しくは知らんかったし。ただ、大会前からトルシエは言ってたね。『スペインだけは戦ったら絶対に負けるぞ』って。だからどれほどのもんかと思ってやってみたら、マジで強かった。

あれが世界でしょ。ポルトガル、ウルグアイ、メキシコを倒して行けるんちゃうか、来たなこれって思ってたけど、甘くはなかったね」

最初はいても5年くらいかなと考えてた。

 ワールドユースに前後して、遠藤のプロキャリアはのっけから波乱含みだった。

鳴り物入りで入団した横浜フリューゲルスは1年目でクラブが消滅。同期入団の手島和希、辻本茂輝とともに京都サンガに新天地を求めた。ボランチのレギュラーの座をすぐさま射止め、三浦知良、パク・チソン、松井大輔らとサンガ歴代最強布陣を構築したが、在籍2年目の2000年シーズンにチームは降格。21歳にして2度目の鞍替えを決意する。

選択肢はいくつかあったという。ではなぜ、タイトルをひとつも獲ったことがない中堅クラブ、ガンバ大阪を選んだのか。

「サッカーが云々というよりは、純粋にメンバーが良かったから。ピンと来た。3、4年後に絶対強くなると。

その前にシドニー(オリンピック)があって、ガンバにはそのメンバーがたくさんいたもんね。都築(龍太)さん、コウタ(吉原宏太)くん、イナ、ツネさん(宮本恒靖)がいて、同い年でハッシー(橋本英郎)とイバ(新井場徹)もいた。そこにサトシ(山口智)が加わるのも聞いてたから、順調に育てば、それなりに強いやろうと。

けっこうメンバーは入れ替わりがあったけど、着実に力を付けていった。クラブも補強にお金を使うようになっていって、いい外国人が入ってきたりね。俺の見立ては間違ってなかったと思った」

だが、ガンバでの初タイトルは、入団5年目の2005年シーズンまで待たなければならなかった。

「まあ時間はかかったけど、そんなもんじゃないのかな。ビッグタイトルを獲ったチームって、そのあと獲れなくなるか、ずっとなにかしら獲り続けるかのどっちかでしょ。ガンバはなんだかんだで獲り続けてる。そこは大きな違いだと思うから。

21歳でガンバが3チーム目だったんで、最初はいても5年くらいかなと考えてた。移籍ってかならずしも悪いことじゃない。そんな価値観があったから、ずっと長く同じチームにいたいとは思ってなかった。転々としすぎるのは良くないけど、居続けるのもどうかなってイメージ。だから、優勝争いをしてなかったら移籍してたかもしれない」

ガンバでのJリーグ出場は513試合を数え、95ゴールを叩き出している。もちろん、どちらの数値もクラブ歴代最多だ。

今季で在籍17年目。長かった? それともあっという間だった?

「17年目ねぇ……。長かったかなぁ、うーん、長いかも。いや、絶対に長い。短くはないわ(笑)」

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