【黄金世代】第2回・遠藤保仁「それは、桜島からはじまった」(♯1)

最近、チャレンジしなきゃいけないことが増えた。

いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。

1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。

後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。

アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。

今回はガンバ大阪の生ける伝説、遠藤保仁の波乱万丈ストーリーに迫る。歯に衣着せぬ独特の言い回しで、黄金世代への熱き想いを語り、自身の濃密なキャリアを振り返ってくれた。

ヤット、颯爽と登場!!
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夕陽が差し込む練習場で、遠藤保仁は居残り練習をしていた。

そこに歩み寄ってきたのが、清雲栄純監督だ。1997年の初夏、立ち上げまもないU-18日本代表の合宿が、静岡県の清水市で行なわれていた。

初めて遠藤と会話するらしい指揮官が、「よし、いいニックネームを考えた。遠藤は今日からサクラジマだ」と切り出した。とくに嫌な顔もせず、苦笑するばかりの本人。ユーモア溢れる清雲氏ならでは“いじり”だったが、さすがにそれはないだろうと立ち上がったのが、黄金世代の仲間たちだ。

「ダメですよ、そんなの。仇名はちゃんとあるんです。な、ヤット?」

スポーツ刈りの頭を撫でながら、鹿児島実業高校のボランチは軽くうなづいた。傍らであぐらをかぎ、ほかの選手の取材をしていたわたしが、初めて「ヤット」のフレーズを耳にした瞬間だった。

いきなり余談だが、遠藤のご両親が発する「ヤット」は、響きが違う。日本中に広く浸透しているノーアクセントではなく、しっかりと「ヤ」を強調している。それが鹿児島弁風であり、おそらくはオリジナルなのだろう。あの鹿実の名将、松澤隆司総監督も同じだったから、きっと間違いない。

一度見たら忘れない、あの人懐っこい笑顔は、20年前とまるで変わらない。その穏やかな性格と物腰も然りだ。

「基本的に負けず嫌いで、それは昔からずっと。感情を表に出さないところや、何事にも動じないあたりも。性格はそうそう変わるもんじゃないでしょ。

でも最近、この歳(37歳)になって思う。チャレンジしなきゃいけないことが増えて、意味合いも変わってきたなって。立場的には、いろんなものにチャレンジするより、コンディションをキープしようとか、これ以上やったら筋肉が切れるから抑えようとか、守るものが多くなるはずでしょ。でも俺には、そういう考えがいっさいない。

いつもチャレンジしていたい。なにもかも若手と同じでいいし、ベテラン調整とか、マジでいらない」

もっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。

1980年1月28日、鹿児島・桜島のシンボルである御岳(おんたけ)の麓で、生を受けた。それから高校を卒業するまでの18年間、ヤットの成長を見守り続けた郷土だ。はたして、桜島の風土と島民の特性とはどういうものなのか。愛情たっぷりに説明してくれた。

「みんな本当にあったかい。いつでも、誰かを助ける。物心ついたときから徹底的に植えつけられているせいか、もう身体に沁みついてる感覚なんだよね。うちでご飯食べていきー、喉が渇いてたら飲み物もっていきー、みたいな。

苦しくなったときに誰かを助けるというのは、すごく自然に湧いてくるもので、プロになってからあらためて感じた。『自分はちょっとそういう想いが強いんかもな』と。誰かが削られたら俺が削り返す。誰かが疲れたら、そのぶん俺が走る。勝手にそうなるから。桜島特有なのかどうかは分からんけど、田舎暮らしの良さだろうね」

いつからサッカーボールを蹴りはじめたのかは、覚えてないという。それほど遠藤家にとってサッカーは日常の風景に溶け込んでいた。長男の拓哉と次男の彰弘がすでに虜になっていて、幼稚園児の保仁をしごきまくったという。

ただ、当時の島の少年団は小学3年まで入部が許されていなかった。そこで末っ子を不憫に思った父の武義は、自宅の庭を改修して、ちょっとしたサッカーコートを作った。ふたりの兄や近所のサッカー少年たちに交じり、コテンパンにされながらも、懸命に自分の居場所を探した日々。まさに原点だったと回顧する。

「あれは本当に良かった。ただでさえ普通の子どもらより巧い兄貴たちとやってたわけで、兄貴たちの友だちもみんな大きかったし、そのなかでどうやってボールに触れるかを必死に考えてたんだと思う。どうやったらボールを取れるか、どうやったら抜けるか。がむしゃらにボールを追っかけ回してたから体力もついただろうし。まあ、まったく敵わなかったけど、巧くなる要素があそこにはいっぱいあったんだと思う。

ブラジル代表の選手って、ストリートサッカーとかフットサル出身の選手が多いけど、同じような環境だったのかもしれない。みんな年上で、吹っ飛ばされないようにはどうしたらいいかをすごく考えてたもんね。俺にとっては最高にいい環境。朝の30分くらいだけだったけど、一日でいちばん楽しい時間だった」

10年前に桜島を訪れて、少年団の指導をされていた人物に話を訊いたとき、驚きのエピソードを教えてもらった。小学校低学年だと、我先にとボールに群がってダンゴ状態になりがちだ。だがそんななか、保仁はじっとその外側に位置取り、ボールがどこに出てくるかを見定めていたというのだ。本当なのか!?

「どうやろ、ぜんぜん覚えてない。でも、そんな感じだったんじゃないかな。考えてプレーするってのはもう身に付いてたし、そこ(ダンゴ)に入ってもしょうがないとは思ってただろうね」

小学校ではストライカーとして鳴らしたが、中学のサッカー部に入ってからは徐々にポジションが下がっていった。そしていつの間にか、ボランチが安住の地となっていたようだ。

「中学校くらいからほぼいまのスタイル。良くも悪くも、さぼり癖を覚えてしまった。あれ? ボランチって楽やんと。これはきつくないぞ、ぜんぜん。ほかの選手より体力もあったし、ボール来たら捌いとけばいいみたいな。点取り屋で入学したんだけど、もっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。あの頃とスタイルはほとんど変わってない」

名伯楽は言った。「ちょっとブラジル行って来い」。

ふたりの兄の後を追うように、高校は名門・鹿児島実を選んだ。

遠藤が高3になる直前の1997年3月のこと。東京で開催されたフェスティバル、イギョラ杯のテントで、高校サッカー担当だったわたしは松澤総監督に話を訊きにいった。すると名伯楽は「あの隅っこで紐結んでる、そうそう、僕の話よりあいつを取り上げてやってください。ブラジルから帰ってきたばかりなんですよ」と言い、そそくさと去っていった。

以前、テレビ番組でも特集されていたが、ヤットにとって高校時代のブラジル留学は途轍もなく巨大な基盤となった。例えようのないカルチャーショックを受け、18歳にしてプロの厳しさと気構えを学んだ。

だがそもそも、みずから望んだ留学ではなかったらしい。

「(松澤総監督から)おい、3日後にちょっとブラジル行って来いって。言われたほうは『ええ??』って感じでしたよ。1か月を2回。なかば強制的だったけど、いまでは本当に感謝してる。面白かったからね。

なにより、プロの必死さが伝わってきた。高校生の俺に対しても手加減なんていっさいしないし、むちゃくちゃハングリーで、どいつもこいつもすごいなって思った。ある日、サントスとの契約が決まった選手がいて、みんなが『俺も絶対ああなるぞ!!』ってすごいパワーでさ。そりゃもうハートが強くて、練習の激しさも半端ない。家族をハッピーにさせるのは俺らやって死ぬ気でやってたから。

ロッカールールはボロボロやし、バスで10時間とかかけて試合しに行ったりもしたね。普通にコーチとかも怒ってくれた。もっと激しく行け!! それだから日本は弱いんだ!!って」

帰国して2か月後だ。遠藤は初めてU-18日本代表に招集され、黄金世代の一員となった。

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