【黄金世代・復刻版】「遠藤家の人びと」~名手ヤットのルーツを辿る(後編)

「10番をつけるか?」と訊いたら、あっさり「7番がいいです」。

 桜島中での3年間を経て、95年、保仁は「当然のように」(本人談)、鹿児島実高の門を叩く。すでに拓哉は地元企業に就職、彰弘は横浜マリノス(当時)で桜島初のプロフットボーラーとなっていた。

ふたりの兄と同様に自宅→フェリー→学校(市内)を自転車で往復(約3時間)し、毎日帰宅するのは夜遅く。ともに時間を共有し高め合ってきた“戦友”がいなくなったわけだが、保仁のビジョンには一点の曇りもなかった。

鹿児島実高の名将、松澤隆司総監督は、「あの子に教えることはなにもなかった。すでにサッカーをよく知っていた」と話す。

さらに「桜島から来た子どもたちはみんな基本がしっかりできている。たいていは改めて教えなければいけない子が多いんだけど、彼らには必要がないし、僕がポジションを与えてあげるだけ。だから1年生の頃から試合に出れる子が多いんですよ」と称える。

ただ、保仁はふたりの兄のようにはいかなかった。

急激に身長が伸びる時期だったこともあるが、じっくり周囲を見極めて“活用する”のがヤット流。長くともに過ごした桜島の仲間たちとは異なる、曲者揃いのチームメイトたち。その個性を見極めつつ、かといって慌てることなく、着実に成長曲線を描いていったという。

松澤の薦めで高2の冬に単身でブラジル留学を果たしたことで、プロになるための強い意識も備えた。「あれからまた目の色が変わりましたよ。ふたりの兄貴と同じように『10番をつけるか?』と訊いたら、あっさり『7番がいいです』。考えがハッキリしとるんです」と総監督は当時を振り返っていた。

寝ても覚めても、見上げればそこに日章旗。

 その少し前、父・武義は、大志を抱く保仁の思いを知った松澤に、面白い提案をされている。

兄弟3人、一緒に過ごしていた大部屋は保仁の独占状態となっていたのだが、その天井に、日の丸を貼ろうというものだった。寝ても覚めても、見上げればそこに日章旗。いずれはJリーグ、日本代表、そして世界の舞台へ。「彼にはそれくらいの期待をかけていい」と太鼓判を押してもらった。

父はマジックで白い部分に「めざせ日本代表!! U-20、シドニー五輪、ワールドカップ」と激励のメッセージを書き記し、「お父さんより」と小さく添えた。今では遠藤記念館のごとく彩られているその部屋だが、天井には燦然と、日の丸が輝いている。

まさかそのすべてが叶うとは思ってもいなかったと、父が明かす。

「プロになってからもゆっくり着実に成長していきました。フリューゲルスの消滅や京都での降格もあって、シドニーでは試合に出れなかった。それでも気丈に足元を見ていましたよね。ガンバという最高のチームに移籍できたのは、ヤットにとっては大きかったと思います。ドイツ(ワールドカップ)ですか? 残念でした。ひとりだけ出れなかったんですからね。悔しかったけど、楽しみは先に取っておきますよ」

桜島で育った18年間。兄たちの背を見ながら、心の底からサッカーを愛し、常に楽しくも悩み、考え、独自のスタイルを深めていった。

その探求心は衰えることを知らず、保仁自身、「特徴がないのが俺の特徴。だからどんな選手と組んでも楽しくやれるし、時に合わせたり、時に使ったり使われたり、まだまだ伸びていける気がしてる」と語る。

いまだ進化を続ける27歳。この天性のプレーメーカーがキャリアのピークを迎えるのは、はたしていつになるのだろうか。

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