【黄金世代・復刻版】「遠藤家の人びと」~名手ヤットのルーツを辿る(中編)
古豪・鹿児島商高サッカー部の出身で、卒業と同時に桜島に戻り、桜州少年団の監督となった藤崎信也は、三兄弟の成長の過程をつぶさに見てきた熱血漢だ。そのなかでも保仁には、とても小学生とは思えない非凡な才があったと回顧する。
「僕は技術のある選手には、いつもトップ下をやらせていたんです。もちろん遠藤兄弟は3人ともそのポジションでしたが、面白いくらいにスタイルが違っていた。拓哉はスピードと意外性があって、それこそFWに近い動きをする。アキ(彰弘)は身体を当てながらもキープしてゲームを作るリンクマンですね。そしてヤット。アイツはどうやっても下がってくるんですよ(笑)。じっとゲームを観察してパスを出すタイプですね。今と似ていますが、当時ああいうプレーをする小学生はそうそういませんでしたよ」
運動会の短距離走でのこと。スタートを告げる号砲を待つ子どもはたいてい、前方を見据えて構えている。ところが保仁はひとりだけじっとピストルを凝視し、スターターの指の動きを見定めていた。
少年団に入りたての頃にも大人びた一面を見せている。
サッカーのイロハを習う前の子どもたちだけに、ゲームをやってもダンゴ状態になるのが常だ。そこから少しずつ視野を広げ、ドリブルやパス、チームプレーへと意識を変化させていく。
なんと保仁少年は、そんな時でもダンゴの外でじっとボールが出てくるポイントを探っていたのだそうだ。こぼれればすぐさま反応してマイボールにし、自分の思うがままにピッチを支配していた。イメージを蓄えるクセが付いていたのだろう。
現在にもつながる冷静ぶりは、すでに8歳の時点で形成されていたのか。藤崎の分析はこうである。
「とにかく拓哉のテクニックというのは、凄かったですよ。同時期で比べたら兄弟のなかでも一番だったと確信しています。そんな長男にずっと戦いを挑んでいたのがヤットで、どうすればボールが獲れるのか、上手くなれるのかを考えて育ったんでしょうね。それはアキにも言えることかもしれませんが、兄とは違う部分を磨いていこうと思っていたのかもしれない。ヤットは末っ子。ふたりの兄の試合をじっと観る機会が多かったから、あれだけの戦術眼を持つようになったのかなと思います」
母のヤス子も同調する。
「保仁はホントに小さい頃から物怖じしない性格でしたよ。マイペースというんですかね。ほかの子どもたちがゲームやおもちゃを欲しがる年頃になっても、『新しいサッカーボールが欲しい』としか言いませんでしたから。親としてはなにか買ってあげたいと思っても、いらないって言うんです(笑)。拓哉も彰弘も同じ。あの子たちは年齢は離れてましたけど、一緒にいる時間は明けても暮れてもサッカーばかりでした。家の窓ガラスを割られて、直したらすぐにまた割られて。1日に2回もガラス屋さん来てもらったこともあります(笑)。どちらも保仁でしたね」
家のなかでもサッカーのビデオを欠かさず観ていた保仁。とりわけ拓哉の鹿児島実高時代のプレーを何度も繰り返し観ては、巻き戻したり、スローで送ったり、飽きもせずに“分析”を試みていたのだ。
父の武義は、幼ない保仁と社会人チームの試合を一緒に観に行った時のことを、今でもよく思い出すという。ボソっとひとり言のように保仁が「あ、これ入るよ」「あそこにパス出すよ」と漏らすと、たいていはその通りになった。嘘のような、本当の話なのである。
逸話は続く。
「ヤットは小学校の6年間、皆勤だったんです。兄弟で唯一ですよ。ただ一日だけ、凄い熱があって休ませようと思ったことがあった。朝からずっと泣いてるんで苦しいのかと思ったら、理由は『今日サッカーができないから』でした。不憫に思ったので先生にお願いして、登校させました。そうしたら夕方の練習ではピンピンしてサッカーをしてました(笑)。ホント、凄い熱だったんですが……」
そんなこともあった小5の頃、町を二分するほどのライバル関係にあった桜州と桜峰は、合併を果たして名を桜島少年団に変えた。
そしてその先にあるのは、町内で唯一の中学校だった桜島中。ただでさえタレント揃いで無敵を誇っていた“桜島ユナイテッド”は、小学校レベルでの合併を経て、さらにチーム力が強固になっていた。桜州少年団の藤崎監督は以降、桜島中のコーチとなり、現在に至っている。
「三兄弟がすくすく育ったのは、ご両親のおかげ。サッカー、スポーツに対する理解があってこそだし、その愛情は他の町の子どもたちにも分け隔てなく注がれました。役所に勤められていたお父さん(武義)には当時、役所のマイクロバスを活用してもらい、子どもたちの遠征などに協力していただき、いつでも温かい眼で見守ってくれました。そういった熱い思いは、桜島の人びとみんなに共通している。私は子どもたちにそうとう厳しく接しましたが、いつも理解を示してもらった。少年団からは何人ものJリーガーが育っていますが、それも、この桜島の風土があってこそ。これからも伝統として残っていくものだと思います。どうしようもなく負けず嫌いなところも含めてですが(笑)」
少年団は、月謝などを一切徴収しなかった。指導者ももちろん無償のボランティアで、何年かに一度新調するユニフォームの資金は、町の家々が薩摩焼酎のビンなどを差し出して現金に換え、協力し合って捻出してきた。前述の溶岩グラウンド然り、である。
人口4000人強の小さな町から続々と輩出された名手たち。遠藤三兄弟の華麗なるストーリーも、決して偶然ではなく、必然から生まれたものだということが分かる。サッカー小僧たちが没頭できる環境は、恐ろしいくらいに整っていたのだ。