【J2降格時に大事なこと】腐った土壌に種を撒いても無駄骨/オムニバス連載・ガンバ大阪編

昇格即三冠達成――。日本のサッカー史で例をみないド派手な偉業を果たしたG大阪ではあるが、その復活劇はクラブの努力の賜物だったと言えるだろう。

一口に「降格」と言っても、そこには様々なパターンが存在する。選手の力量差で打つ手なく、涙を飲むクラブもあれば、何らかの歯車が狂ったことで本来ならば起こりえない降格を強いられるケースもある。2012年にクラブ史上初の屈辱にまみれたG大阪も後者のパターンである。

当時のザックジャパンで主力を張っていた遠藤保仁と今野泰幸が健在で、レギュラークラスには新旧の代表クラスがズラリ。総得点でリーグナンバーワンの攻撃力を誇った大阪の雄は、最終節で降格が決定したものの、天皇杯でも決勝に進出していたのだ。

「僕らに力が足りなかった」と遠藤は振り返ったが、まさかの低迷の要因は、監督選定を軽んじたクラブの判断の甘さに尽きると言えるだろう。

だからこそ、降格が決定した磐田戦の直後、シーズン途中に昇格した梶居勝志強化本部長には迷いがなかった。再建のポイントを実に明確だったのだから。

「もう、次の監督選びに失敗するわけにはいかない……」

開幕当初指揮を執ったセホーン監督は事実上、呂比須ワグナーヘッドコーチの「傀儡政権」で、二頭体制は開幕から3試合目で早くも崩壊した。半ば押し付けられる格好で後任を託された松波監督も初の監督業で力量不足は明らかだった。

二度、監督人事で致命的なミスを犯したG大阪だけに、クラブが全力を注いだのは立て直しに向けた確かなロードマップを描ける指揮官の選定だった。リーグ一の得点力を誇りながらも、失点数もワースト2位という明らかな欠点を抱えていたチームが必要としていたのは、括弧たる守備戦術を有する監督だった。

長谷川健太監督の招聘に成功した段階で、クラブは復活に向けて確かなスタートを切っていたも同然だったと言えるだろう。

「私は特別なことをやっていない。選手のレベルが高かった」(長谷川監督)。J2で優勝を飾り、見事一年でJ1昇格を果たしたG大阪だったが、サッカー監督は決してマジシャンではない。J2に降格し、分配金や入場収入など経営面でも様々な逆風が吹く中、クラブは主力の流出を防ぐべく、選手の待遇面でも出来る限りの策は講じていた。

遠藤や明神智和らチームの精神的支柱は降格した当初から早々に残留を宣言していたこともあって、選手たちも早くから一枚岩となって一年での昇格を誓った。J2を戦った2013年もシーズン途中にレアンドロと家長昭博のレンタル移籍が終了すると、すかさずドイツから宇佐美貴史をレンタルバックさせ、ブラジル人FWのロチャも獲得するという手厚いバックアップで「超J2級」のチーム作りを支えたのだ。

「一年で絶対に戻らないと大変なことになる」。当時の野呂輝久社長は苦しい財政事情を明かしていたが、フロントと現場の指揮官、選手たちが危機感を共有したことで、一年でのJ1昇格に成功した。そして一枚岩になった大阪の雄は翌シーズン、前代未聞の昇格即三冠を成し遂げたのだった。

「守備をきっちり植え付けて、若手も育成出来る」(梶居勝志強化本部長)という指針に間違いはなかった。2014年のリーグ戦ではリーグ2位の得点を奪った一方で、失点の少なさもリーグ2位。かつての爆発的な攻撃力は失ったものの、手堅いチームに生まれ変わったG大阪は毎年、コンスタントにタイトル争いに絡んでいる。

豊富な戦力であろうと、苦しい持ち駒であろうとクラブの早期復活に向けて不可欠なのは適切な監督人事でリスタートすることだ。ただ、一つだけ言えることがある。腐った土壌(クラブ体質)に、いかに素晴らしい種(監督)を撒こうと、無駄骨に終わるというものである。

フロントの見通しの甘さで降格したG大阪だったが、クラブを再び復活させたのもまた、体質改善に成功したフロントの力だった。

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