ガンバ大阪・中谷進之介が語る被災地訪問と「ソナエルJapan杯」の意義
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「第2の故郷」珠洲市を元日に襲った能登半島地震
「出身は千葉県の佐倉市ですが、両親の実家が珠洲市で、実は僕自身も珠洲市生まれです。小学生になった頃から、2人の兄と一緒に能登空港まで飛んで、そこで祖父に迎えに来てもらうというのが、夏休みの恒例行事になっていました」
懐かしむように、そう語る中谷。千葉内陸部に住む小学生にとり、日常に海がある珠洲の暮らしは、格別に楽しいものであった。
「(珠洲に滞在中)毎日のように海に連れていってもらって、釣りをしたり泳いだり。千葉で暮らしていても、あまり海に行く機会がなかったので、珠洲といえば夏休みの海のイメージが、ずっと僕の中にありました」
そんな子供時代の記憶が詰まった珠洲市が、巨大な地震と津波に見舞われたのは、2024年の元日のこと。中谷は、都内にある妻の実家でくつろいでいた。
「地震速報が入って、震源が石川県能登地方と知った時に、ものすごく不安な気持ちになりましたね。父方と母方、それぞれの祖父母が暮らしていましたから。すぐに家族のグループLINEで安否確認をしました」
父方の祖父母の無事は、幸いすぐに確認できた。けれども母方の祖父母とは、なかなか連絡が取れない。ふいに思い出したのが、中学時代に経験した2011年の東日本大震災。あの時の津波被害の映像が、鮮明に脳裏に蘇る。
「TVがずっと津波警報を報じていたじゃないですか。『頼むから海から遠いところに逃げてくれ!』って、心の中で祈り続けていましたね」
NHKのアナウンサーの口調は「ただちに避難してください!」と、次第に緊迫したものとなってゆく。一方、SNSのタイムラインでは、地割れや倒壊した家屋の映像が次々にアップされていた。中谷の中で、不安はどんどん膨らみ、焦燥感は募るばかりであった。
「結局、4〜5時間くらい経ってからですかね。人づてで、母方の祖父母に、ようやく連絡が取れたのは。そこでようやく、安堵することができました。とはいえ、とても正月気分に浸ることはできませんでした。当然ですよね」
1年7カ月が経っても復興から程遠い現実
《今回の訪問ではファン・サポーターの皆さまが被災地の復興を願って、私たちに託してくださった「TEAM AS ONE募金」を原資とし石川県珠洲市内の中学校を訪問し、ガンバ大阪からは中谷選手、南野選手、名和田選手、阿部選手OB、ガンバ大阪アカデミーコーチの谷コーチが参加します。》
石川にはJ3のツエーゲン金沢があり、隣県の富山にはJ2のカターレ富山がある。もちろん両クラブとも、さまざまな形での被災地支援活動をつづけてきた。そんな中、ガンバ大阪が被災地訪問を行うのは、1996年から定期的に金沢でホームゲームを開催していたことが、少なからず影響していたと思われる。
中谷は震災直後よりクラブと共に被災地訪問の機会を窺っていた。珠洲は自分にとっての第2の故郷。昨年の暮れには金沢で祖父母との再会を果たしているものの、なかなか現地を訪れることができなかった。
大阪を出発したのは、リリースが出た7月6日。セレッソ大阪とダービーを戦った翌日であった。クラブエンブレムをあしらったチームバスで出発して、七尾市で1泊。7日に珠洲市に到着した。
「大阪からだと片道7時間くらい。道中、道路がボコボコでバスがずっと揺れていて、これは復興を進めるのは大変だなって痛感しました」
その間、車窓から見えるのは、TVで見ていた以上に痛ましい光景だった。
「ガードレールの外に車が落ちたままだったり、潰れた民家が手つかずの状態で残っていたり。道路の脇には、ブルーシートのかかった家々が点々としていて、現実の重さを突きつけられましたね」
珠洲市に到着して、真っ先に訪ねたのが、父方の祖父母の自宅。ある程度は覚悟を決めて訪ねてみると、そこは更地になっていた。
「母からは『半分は残っている』と聞いていたんですが、何も残っていなかったので言葉を失いました。祖父母は今、仮設住宅で暮らしているんですが、プレハブなので夏は蒸し暑いし冬は底冷えする。水が出なかった時が一番つらかったと、祖母が話していました」
この時点で、地震発生から1年と7カ月。しかし第2の故郷は、復興から程遠い状況に置かれていたことに、中谷は愕然とするほかなかった。
「サッカー選手だからできること」とソナエルJapan杯
「子供たちと一緒にボールを蹴って、それから一緒に給食をいただきました。『好きなアニメは何?』とか『推しは誰?』みたいな会話はありましたけど、サッカーの話題は一切なし(笑)。実は『さぞかし辛い思いをしているんじゃないか』と、勝手に思い込んでいたんです。でも実際には、みんな明るくて、すごく前向き。逆に僕が元気をもらいました」
珠洲に滞在したのは半日ほど。サッカー教室を終えたガンバ大阪の一行は、そのまま7時間かけて帰路に就いている。限られた時間ではあったものの、彼らの被災地訪問はメディアやSNSなどを通じて拡散され、被災地の現状を知らしめる契機にもなった。
「やっぱり行動して、伝えることが大事なんだと実感しました。僕らにできることは限られていますけど、サッカー選手だからこそ届けられるメッセージもあると思います。報道やSNSを通じて、珠洲のことを思い出すきっかけになる。そして僕自身がピッチ上で活躍することで、能登の人たちの励みにもなる。それが選手としてできる、役割のひとつだと思います」
今回、中谷に珠洲での経験を語ってもらったのは、もちろん理由がある。8月19日から始まった「ヤフー防災模試 ソナエルJapan杯2025(以下、ソナエルJapan杯)」に、広く参加していただきたいからだ。
ソナエルJapan杯は、2021年にスタート。防災意識を高めることを目的に、災害時に必要な知識や能力を問う「ヤフー防災模試」を、Jリーグに所属する60クラブのファン・サポーターがパソコンやスマートフォンで受験する。防災模試受験による勝点、そしてクラブ公式Xへのリポストによる勝点の合計をクラブ間で競い合い、最終順位を決定する。
Jリーグの全60クラブは、6クラブずつに分かれて競い合い、これまでV ・ファーレン長崎が4連覇中。一方で昨年は、51位から6位となったモンテディオ山形が「Best Jump Up賞」を獲得するなど、ソナエルJapan杯に積極的に関わるクラブも増えてきている。
最後に中谷に、ソナエルJapan杯を受験する意義について語ってもらおう。
「ただ『勉強してください』というのではなく、ランキングがあると楽しく参加できますよね。サッカーと同じで、勝ち負けがあるから頑張れる。ソナエルJapan杯を通じて、勝負を楽しみながら防災の知識を身につけてほしいと思います」



