<ガンバ大阪・定期便136>初瀬亮が7年ぶりの復帰。「すべては結果で証明する」。

 ガンバ大阪のアカデミー育ちという『生え抜き』としてのプライドと、ヴィッセル神戸で積み上げた大きな自信を引っさげ、初瀬亮がガンバに帰ってきた。

 背番号は『21』。ガンバアカデミー時代、万博記念競技場のスタンドから観ていたレジェンド、加地亮の姿を思い出したという。

「21は、ガンバがかつて『タイトル』の歴史を重ねていた時代に、加地(亮)さんがつけていた番号。6や19など(自分がつけたことのある番号)も空いていたんですけど、今回はつけたことがない番号にしようと思っていた中で、サイドバックの加地さんがつけていた21は、いい番号だなと思いました」

 ともに『サイドバック』であることはもちろん、読み方こそ違えど、同じ漢字の『亮』であることや明るいキャラクターの持ち主だということも、似て通ずる部分だ。こよなくガンバを愛しているということも。

昨年まで6年間在籍したヴィッセルのことも大好きなクラブになりましたけど、プロサッカー選手としての今の自分があるのは、ガンバがあったから。ここで育ててもらったことがすべての始まりだった。そのガンバにこうして声を掛けてもらってすごく嬉しかったです。かつてガンバを出る時に『成長した姿を見せる』という覚悟でクラブを離れたからこそ、優勝といった目に見えた結果を残してからじゃないと、ガンバには帰ってこれないと思っていた。今回そのチャンスをもらって、今度は、ガンバでタイトルを…僕が高校3年生だった時に天皇杯に優勝して以来、手にしていないタイトルを、自分が試合に出て獲りたいし、そのために自分の全てを注ごうと思っています。思えば、アカデミー時代、強いガンバを見て、トップチームで活躍するユース出身選手を見て、プロを目指したように、今度は僕自身がここで後輩たちの目標にしてもらえるような姿を見せていけたらいいな、と思っています」

■トップチーム昇格と、ヴィッセル神戸への完全移籍。

 ジュニアユース時代からガンバに在籍し、16年には市丸瑞希、高木彰人、堂安律らとトップチームに昇格した初瀬が移籍を決断したのは19年のこと。プロ初年度から同期ではいち早く公式戦に出場しながらも、以降の3年間は定位置を掴めずにいた中で神戸に活躍の場を求めた。

 もっとも、すぐにレギュラーの座を手にすることはなく、19年9月にはJ2リーグのアビスパ福岡へ育成型期限付き移籍。神戸に復帰した20年もJ1リーグ出場は16試合にとどまるなど苦しい時間が続く。さらに、21年にはプロキャリアで初めてシーズンを通して稼働しながら、翌22年は再び出場機会を大きく減らすという悔しさも味わった。

「22年は一番メンタル的にも重くのしかかったシーズンでした。調子は決して悪くないのに、というかむしろ、ずっと調子は良かったのに試合には出られないという状況は精神的にも一番辛かった」

 だが、結果的にその事実は、彼のキャリアにおいて、大きな分岐点になる。悔しさは自分の弱さを見つめ直し、体を鍛え直す時間に変えた。

「正直、移籍も考えました。でも、逃げるのは簡単やから。それよりも今、自分がすべきはヴィッセルで試合に出る自分を見出すことやな、と。そのためにオフシーズンはほぼ休みなく、東京と大阪を往復しながら、ひたすら運動量と走力を上げるトレーニングに取り組みました。いろんな人に相談する中で、正直、今から技術を上げるには限界があるというか。ここからべらぼうには巧くはならんやろうけど、走力や運動量はまだまだ伸び代がある、と。しかも、攻撃に参加して、また守備に戻って、また上がって、また戻って、とアップダウンを繰り返しながら、今の技術を発揮できるようになったら絶対にヴィッセルの力になれると思うから。そこをもう一回見直そうとオフシーズンはこれ以上できひんっていうくらい、ずっとトレーニングをしていました。それによってめちゃめちゃ走れるようになった気がするし、走る強度みたいなところも上がった手応えもある。あとはこれを公式戦でどれだけ出せて、チームの結果に繋げられるか。やりますよ」

 その言葉のままに躍動したのが23年だ。この年、初瀬は出場停止の1試合を除く33試合に先発出場。8アシスト1ゴールと結果を残しチームのJ1リーグ初優勝に貢献する。それは翌24年にも継続され、同年は35試合に出場し7アシストと『Jリーグ連覇』を後押し。手に入れた『強度』は、初瀬が課題とされてきた『守備』の改善を図ることに繋がり、左右両足から繰り出される精度の高いキックは繰り返し、ヴィッセルの得点を演出した。

 事実、24年のチャンスクリエイト総数は、宇佐美貴史が弾き出したリーグ5位の『80』に迫る『72』。この数字は、自身最多となった23年のそれに更に11を積み上げる数字だった。

■父にもらった2つの言葉を胸に、初めての海外移籍を実現する。

 その自信を持って海外に活路を見出したのはプロ10年目、25年だ。常々「明確な結果を残してから海外移籍を」と考えていた初瀬は『リーグ連覇』を自信に、イングランド2部、シェフィールド・ウェンズデイへの完全移籍を実現する。

 といっても、ことは順調に運んだわけでは決してない。実際、彼が海を渡った1月半ばの時点ではどのクラブとも正式な契約は成立しておらず、場合によっては所属チームがなくなる可能性もあったという。

「ウェンズディは当初、今冬の移籍ウインドーで即戦力になりうる前線かサイドハーフの新戦力の獲得を目指していました。それもあってクラブGMには『興味はあるけど、練習を見て決めたい』と言われていました。でも僕にすれば、少しでも興味を持ってもらえているなら、その可能性にチャレンジしないのは自分じゃない、と。ここで尻込みして後悔するなら、チャレンジして後悔する方が余程自分のためになると思った」

 だが、年齢が上がるほど、海外移籍のハードルも上がると自覚すればこそ「これがラストチャンス」だと自分に懸け、結果、その切符を掴み取った。

 思えば、そうした考え方は、初瀬がガンバアカデミー時代から信条にしてきたもの。プロに憧れを抱き、Jクラブのアカデミーでのプレーを目指した時も、ガンバジュニアユースへの道を勝ち取った時も、父にもらった「自分が決めたことを簡単に諦めるな」「自分の選択に保険をかけるような男になるな」という2つの言葉は、いつも彼に進むべき道を教えてくれた。

「ガンバを受けるときは、父には『自分が行きたいと思うチームを1つだけ選んでそこに全てを懸けろ』と言われてガンバの練習参加を決めたし、ガンバジュニアユースに加入して、実家のある岸和田市から片道2時間かけて練習に行くことになった時は、『だんじり祭り』を諦めました。岸和田生まれの人間にとって『だんじり祭り』は人生をかけて参加するといってもいいほど大事な行事。地元の人たちはみんな、1年を通していろんな活動、準備をして本番を迎えるし、我が家もそうやって代々、祭りにかかわってきました。でも父に言わせれば、サッカーも『だんじり祭り』も、やる以上は中途半端になるのは良くない、と。『サッカーをしたいなら祭りは諦めてサッカーに懸けろ』と言われ、それを機にサッカー一本で頑張ると決めました。なのに、ガンバジュニアユースでは中学2年生の終わりまでAチームでプレーするチャンスすらもらえずで…。周りの友だちには『サッカーやめて、祭りに戻ってこいよ』と言われたこともあったけど、自分が決めたことやからと踏ん張れて今がある。同期のみんながAチームで試合に出るのを見ながらボールボーイをさせられた時は流石に心が折れそうでしたけど(苦笑)」

■「悔しい気持ちは全部、ガンバでぶつけると決めた」。盟友・堂安律の言葉には…。

 その決意で辿り着いたプロサッカー選手としての『今』だからこそ、ウェンズディでいろんな難局に直面しても、すべては「自分の決めたこと」だと真っ向勝負を挑んできた。グラウンド、気候、環境、食事。すべてが日本とは異なる異国の地での挑戦は、孤独を味わうことも多く、悔しい思いをすることも多かったと聞くが、その場に身を置いたからこそ得られたものもたくさんあったと振り返る。

「いきなり、ベンチ外になったり、プレーは決して悪くなかったはずやのにハーフタイムで真っ先に交代させられたり。理不尽なこともたくさんあったけど『どんな時もサッカーにベクトルを向けてやり続ける自分』は海外にチャレンジしたから見出せたと思っています。サッカー以外にすることがないというくらいの環境に身を置いたから、サッカーのことを考える時間もすごく多くなったし、準備やケアに注ぐ時間も、神戸時代よりさらに増えました。Jリーグでプレーしている時とはまた違う強度というか、前に出ていく強度や、寄せの強度みたいなところを要求され続けた経験も、自分の足りなさを気づくことにもつながった。結果的に、クラブの財政問題とか、いろんなことがあって半年で日本に戻ることになり…周りは『たった半年で帰ってきた』と見る人もいるかもしれないけど、僕にとってはすごく意味のある半年にもなったと言い切れる。といっても、やり切った感もないし、悔しい気持ちが残っているのも事実です」

 だからだろう。ガンバ時代から仲が良かった堂安律(フランクフルト)に「亮くん、また海外にも遊びに来てください」と声を掛けられても、冗談ながら断ったと苦笑いを浮かべる。

「律(堂安)とはいろんな話をしてきた中で、ガンバ復帰を決めた時には『亮くん、また海外にも遊びにきてくださいね』って言ってもらったけど、『いや、律の試合を観に行ったら、悔しさを思い出すから行かんわ!』って返しました(笑)。それは冗談ですけど、そのくらい今も悔しさは残っています。でも、その思いは全部、ガンバでぶつけると決めたので。その決断に悔いはないからこそ、とにかくガンバでしっかり自分を示したいし、言葉ではなくすべては結果で証明していこうと思います」

 今回のJリーグ復帰にあたり、大きな熱意で獲得の意向を示してくれたガンバに恩を返すためにも、だ。

「移籍ウインドーも意識しながら、8月に入ったタイミングで海外クラブでのプレーの可能性がなかったら、日本でプレーしようと自分の中で期限を決めていたんですけど、そうした状況でも最後の最後まで、一番熱心に声を掛け続けてくれたのがガンバだった。実際、僕が日本に戻ることを決めた直後に話した時も、すぐに条件を提示してくれたり、話し合いの場を設けてくれたり、いろんなところに気を配りながら誠意を持って接していただきました。だから、4つくらいのオファーの中からガンバにしようと決めました。ただ、その感謝を示すのは『結果』でしかないと思っているので。神戸で2連覇した時も『同じサイドバックの中で常に1番の結果、目に見えた数字を残してやる』ってことを頭に置いてプレーしていたように、ガンバでもそれは同じ。右サイドバックでも左サイドバックでも、前目のポジションでも、どこに入ろうとチームが勝つことを一番に考えながら、試合を決定づけるクロスボールといった個人の数字にこだわっていこうと思っています。また、相手が嫌がるプレーや怖さを出し続けることができてこそ、見出せる結果もあるはずなので。ボールをうまく回せたね、ではなく、それがしっかりと相手にとっての『怖さ』になるプレーにこだわっていきます」

■中堅としての立場への自覚。「宇佐美くんにずっと頼っていたらダメ」。

 そうした決意の裏には28歳という、年齢的な立場への自覚もある。かつて在籍した16〜18年はまだ若く、周りの選手についていくのに必死だったが、今は違う。プロ10年目に突入し、チームを引っ張ることへの責任感も芽生えている。昔も今も憧れの存在である宇佐美貴史をリスペクトする一方で、「宇佐美くんにずっと頼っていたらダメだ」と明言するのも、その覚悟からだ。

「宇佐美くんがガンバを象徴する選手であることは紛れもない事実です。でも、それに負けないくらい僕らの世代が頑張って、チームを引っ張っていかないと『タイトル』には届かないと思うので。実際、強かった時代のガンバは、今の僕らと似たような年齢にあたる中堅の選手…秋くん(倉田秋)、晃太郎くん(大森)、アベくん(阿部浩之)、ヒガシくん(東口順昭)らが勢いを見せ、その少し上の年齢だった敬輔さん(岩下)や大輝くん(丹羽)らが彼らを引き上げて、さらにその上で遠藤(保仁)さん、今野(泰幸)さんらがどっしりと構えていた。あの時代と同じように、これから先、僕らの世代…圭介(黒川)、武流(岸本)、諒也(山下)、徳真(鈴木)、柊斗(安部)、大地(林)ら、中堅にあたる選手が数字、結果を残していくことは、ガンバが勝ち続けることにもつながっていくはずなので。それに、僕らが頑張れば、ベテラン選手にも火をつけられるはずやし、後輩たちも『続こう』という思いになるはずですしね。だからこそ『ガンバ=宇佐美』ではなく、自分を含めて『いや、俺や』『俺だって引っ張れる』って選手が僕ら中堅からどんどん出てくるように、ってことはすごく意識しています。それによって、年齢やキャリアに関係なく、結果を残している選手がピッチに立つべきだという空気がより強く流れるようにしていきたいです」

 もちろん、宇佐美もまたそんな初瀬の思いを「ウェルカムだ」という。

「合流からまだ数日ですけど、技術の部分はもちろんだし、神戸でいろんな経験を積んできた中で、2連覇をした神戸がどんなテンションで、どんなメンタルでどういう声を出しながらやっていたのか、というような練習への姿勢みたいなところを、リアリティを持ってチームに落とし込んでくれている。この先も、その質のままを出し続けてほしいと思っていますし、そもそも、初瀬はピッチの内外でというか、オンとオフで、そのキャラクターを変えられる、稀な存在だと思うので。チームにはそういう選手が必ず必要だと考えても、すごくありがたい。この先も、チームの空気をいい方向に変えていってくれるんじゃないかと思っています(宇佐美)」

 一方、プレーではどうか。

 神戸時代とは違う、ガンバのパスサッカーの中で、自身が活きる術、プレーをどのように描いているのか。初瀬にとって大きな武器である『キック』をどのようにリンクさせていこうと考えているのか。特に、今シーズンのガンバはセットプレーでのゴールが少ないという現状がある中で、その武器はどう輝きを放つのか。

「サッカーはボックス内で怖いプレーをできるかが大事だと思えばこそ、神戸時代はいつも『俺が入れるクロスボールの質次第だ』と自分にプレッシャーをかけてやってきました。それが結果につながってきたという自負もあります。そこは変わらない部分ですが、ただ、ガンバは神戸のようにロングボールが中心ではなく、パスを繋いでいくサッカーなので。神戸でのプレーをそのまま、というわけにはいかないですけど、アカデミー時代を含めて、僕自身はそのスタイルに合った選手だと思っているので。周りの特徴を把握して、しっかりと連携を図れれば、いい融合ができるんじゃないかと思っています。加入が決まった今は、毎日のようにガンバの試合映像を観ていますが、例えば、ガンバのサイドハーフにはスピードのある選手が多いからこそ、自分が右サイドバックに入ったら諒也(山下)をこんなふうに活かす動きが効果的かも、とか。左サイドバックでウェルトンの縦を活かすならこう動けばいいかもな、とか。アラーノ(ファン)なら技術のある巧いタイプだから自分が少し高い位置をとるのもアリやし、亮太郎(食野)は技術があるからこういうコンビネーションができるかもな、とか。そんなふうに周りの選手の特徴を把握した上で自分のプレーを変えられたら、きっといろんなバリエーションの攻撃ができる。そのためにも、練習からしっかり連携を深めていこうと思います」

 そして、それは、初瀬自身も楽しみにしていると話す「ホーム・パナソニックスタジアム吹田でのプレー」で、どのように花開くのか。思えば、パナスタは初瀬にとって、16年のこけら落とし・名古屋グランパス戦で『プロデビュー戦』を飾った『同期』のスタジアムだ。

 初瀬と同じく、今年で10年目を迎えたパナスタで、ガンバで彼が目指すこととはーー。

「こけら落としの時は緊張しすぎて記憶があまりないです(笑)。ただ、アウェイチームとしてきていた時もパナスタの熱気はヒシと感じてきたし、パナスタはもちろん、どのスタジアムでもガンバのゴール裏のサポーターはいつも熱くて、空気を一変させる威圧感があったので。それを味方にできるのは心強さしかないし、満員のパナスタでプレーするのがすごく楽しみです。と同時に、そのサポーターの皆さんが何よりも望んでいるのはガンバの勝利であり、『タイトル』だと思うので。それを掴み取るために、選手、スタッフ、クラブスタッフ、サポーターが一緒になって戦えればいいなと思っています。思えば、神戸での6年間は、ガンバサポーターの皆さんにたくさんのブーイングを浴びせられましたけど(笑)、これを機にやめていただいて、歓迎してもらえると嬉しいです」

 その言葉を聞きながら、ガンバを離れていた6年間、対戦のたびに試合後には決まってガンバサポーターの元に足を運び、挨拶をしていた初瀬の姿を思い出す。

「育ててもらったクラブに対する当たり前の誠意だから」

 どんな時も、決して忘れることのなかったその感謝を胸に、初瀬亮が再び、青黒のユニフォームを纏ってプレーする日が近づいている。そこには、7年前とは違う逞しさを備えた彼の姿がきっとある。

https://news.yahoo.co.jp/expert/authors/takamuramisa

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