「もうムリや…」柿谷曜一朗がプレーを楽しめなくなった深い理由。「これサッカーちゃうやん」の言葉に隠された真意【コラム】
また1人、日本のスターが現役を退く決断をした。セレッソ大阪で伝統の背番号「8」を背負い、日本代表や欧州リーグでも活躍した柿谷曜一朗が23日に引退会見を開いた。時代の移り変わりとともに変化していくサッカーに「しんどい」と思うこともあったという柿谷は、いかにして“引退”という2文字に辿り着いたのか。(取材・文:元川悦子)
●「天才と言われるのが嫌だった」
10代の頃から「天才」「ジーニアス」と言われ、見る者を魅了し続けてきた柿谷曜一朗。2007年のU-20ワールドカップ(W杯)フランス代表戦のハーフウェーライン付近からのループシュートや2016年3月のセレッソ大阪対ザスパクサツ群馬(現・ザスパ群馬)戦のヒール弾、2021年11月に名古屋グランパスの一員として古巣・C大阪相手に決めたオーバーヘッドなど、数多くの記憶に残るスーパープレーを披露してきた。
本人は「天才と言われるのが嫌だった」と本音を吐露したが、類まれなサッカーセンスは誰もが認めるものだった。
その柿谷が2024年限りで19年間の現役生活にピリオドを打つことになった。1月23日には古巣・セレッソ大阪の本拠地であるヨドコウ桜スタジアムで引退会見を実施。自らC大阪にお願いしてこの場を用意してもらったということで、彼は心から感謝の意を表していた。
12月21日の南雄太の引退試合の際には「まだやめへんよ。今も(オファーの)電話が鳴るのを待ってる」と話していた柿谷。その彼がなぜ引退を決断したのか。この19年間に何を思ったのか。全てを赤裸々に語る最後の場は80分という長時間に及んだ。
●引退を決めた理由。「どこかで申し訳なさがあった」
「12月の時点ではまだやろうと思っていました。でも1月になって、『キレイに終わりたい』と思ってるやつが若くて上に行こうと思ってる選手の中に入ったら彼らにも監督にも失礼だし、邪魔やなと。別にカテゴリーは気にしなかったし、引退する前にセレッソに帰ってきてっていう話があったりなかったりもしたけど、やっぱりどこかで申し訳なさがあった。それでキッパリやめるべきかなと思ったんです」と本人は決断に至った経緯を改めて打ち明けた。
その決意を3人の子供たちに伝えたところ「ヤッター。これでパパと一緒にいられる」と長女から言われ、「家族のためにはよかったのかな」と本人も安堵感を覚えた様子。そんな家族のこと、名古屋の一員として2021年のYBCルヴァンカップ決勝を戦った話に至ると、人目をはばからず涙を流した。そういう人間性も含めて、彼はどこまでも愛される選手だったのだ。
相手の裏をかく駆け引きのうまさ、アイディア、創造性、そしてヤンチャなキャラクター…。それらを併せ持ったスターがまた1人ピッチを去るのは、我々見る側にしてみれば、残念以外の何物でもない。
今のサッカーはハードワークや強度、献身性、戦術重視の方向に進んでおり、柿谷のような自由で尖った個性を持つ人材が生きにくくなっている。それも彼の引退を早めた一因なのかもしれない。
近いニュアンスの話を遠藤保仁(ガンバ大阪トップコーチ)もしていたことがある。
●サッカーの本質とは? 「僕は放っておいてほしかった」
「近年はハードワークや球際という言葉がクローズアップされるように、プレーの強度に比重が置かれていると感じます。だけど、サッカーの本質はいかにゴールを入れて、守るのか。その大前提に立ち返って考えれば、別にハードワークをしなくても、点が取れればそれでいいわけです」と。
「サッカーはシンプルな競技」と考える柿谷も昨今のトレンドや方向性にどこか違和感を覚えていた様子。ここ5年くらいは純粋にサッカーが楽しいと思えなくなることもあったという。
「今は良くも悪くも『選手がサッカーをしている』というより、『させられている』というのかな。90分間で自分のやることが決まっているようなサッカーになってるじゃないですか。でも僕は90分間放っておいてほしかった。やっぱり『戦術』って言葉があまりにもミーティングで出すぎるんで、それについていくのもしんどいし、『なんかこれサッカーちゃうやん』って思ったんですよね」と柿谷は神妙な面持ちで言う。
顕著な例と言えるのが、2023年頭に名古屋を離れて、徳島ヴォルティスへの2度目の移籍に踏み切った時。就任したばかりのベニャート・ラバイン監督は生粋の戦術家で、柿谷は懸命に指揮官が言わんとすることを理解しようと何度も話し合いの場を持った。
●「僕が追いかけてきたものじゃないと感じるように…」
「もうベニ(監督)の言ってることの意味が分からなくて、『ホンマ難しい。もう分からん、ムリや』と。でもベニは分かるまで説明してくれて、『お前には戦術以上の役割がある』と言ってくれた。だから頑張れたけど、ホンマにサッカーが難しくなりすぎていると思うんですよね。
もともと自分はサッカーが楽しくて、簡単で、こんなに僕に合ったスポーツはないと思ってやってきたのに、今はしんどくて、難しくて、僕が追いかけてきたものじゃないと感じるようになっていた。それは確かですね」と彼は複雑な思いを吐露した。
柿谷がもっと早くに生まれ、2000年代に円熟期を迎えたなら、より自由度の高いサッカーができたのではないか。日本代表で言えば、ジーコジャパン時代、C大阪で言えばレヴィ—・クルピ監督の頃だろう。
けれども、2010年代以降は「規律を守れない選手はどんなにうまくても、華麗でも使いづらい」と見なされるようになった。しかも、彼のようにストレートな物言いをしたり、感情を思い切りぶつけたりする人間は「コントロールできない」「ヤンチャすぎる」と評されがち。品行方正な選手を求める指導者が増えている分、そのキャラクターもマイナスに作用したところがあったのかもしれない。
●柿谷が今後に描く青写真
もちろん時代が変わればサッカーも変わるから、どの選手も新たなものに適応する努力を続けなければいけない。長友佑都や家長昭博、永井謙佑らは30代後半になってもそれができているから、今も試合に出続けている。
柿谷もそうなろうと全力で取り組み、トライを繰り返したが、やはり「自分は自分だ」というプライドがどこかにあったのかもしれない。やはりこの男は“絶滅危惧種”なのだ。そういう柿谷をもう少し長く見ていたかったというのは、筆者のみならず、多くの人々の共通する思いのはずだ。
ただ、柿谷はプロ選手を退いても、サッカー文化人としていろんな場面で人々を魅了するプレーを見せるつもりだ。近い将来には豪華引退試合を実施すべく、青写真も描いているという。
「僕の引退試合は柿谷曜一朗レジェンド対フレンドという形にはしない。大阪ダービーでやります。セレッソは俺と乾(貴士)君、キヨ(清武弘嗣)、(香川)真司君が出て、ボランチにヤットさん(遠藤保仁)を入れるとか(笑)。2トップが俺と宇佐美(貴史)で、ガンバの2トップが家長君と本田圭佑君にするとか。言ってるだけですけどね(笑)」
興味深いアイディアがパッと浮かぶところも柿谷の魅力。選手時代の苦しみや挫折も糧にして、また違った形でサッカーを盛り上げてほしい。新たな人生を心からエンジョイする彼の姿を心待ちにしたいものである。