黄金のカルテットを追いかけた遠藤保仁――。極めて異質な「お先にどうぞ」の精神、導き出した最適解は欧州よりJだった

「中田と中村は攻撃的に、稲本と小野が主に守備的に」

遠藤保仁が生を受ける1980年代は、国際的にもMFに焦点が当たり始める時期だった。

1982年にスペインで開催されたワールドカップ(W杯)では、ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレゾで構成されるブラジル代表の黄金のカルテットが美しい創造性を発揮し、頂点には届かなかったのに王国で伝説となった。

【PHOTO】“レジェンド”遠藤保仁の骨太なキャリアを厳選フォトで振り返る!(1997~2023)

この大会では同じように中盤にタレントを揃えたフランスがベスト4に進出。やがてバロンドールを3度受賞するミッシェル・プラティニを筆頭に、アラン・ジレス、ジャーン・ティガナ、ベルナール・ジャンジニ(後にルイス・フェルナンデスに交代)を擁すフランスも、2年後のEUROを制し、W杯も2大会連続でベスト4と黄金期を満喫している。

1980年代後半に入るとセリエAに世界中の名手が集結していくのだが、憧憬の舞台となるカルチョの国イタリアは、ロベルト・バッジオ、ジャンフランコ・ゾラ、アレッサンドロ・デルピエーロ、パオロ・ディカーニオ、フランチェスコ・トッティなど立て続けに天才肌を輩出していく。

もちろん1980年代は、『キャプテン翼』も世界規模の人気を獲得していくことになるので、日本のサッカー少年たちが中盤でゲームを支配するエースの座を夢見て技を磨くのは必然とも言えた。

2002年の日韓W杯を終えると、日本サッカー協会は次期日本代表監督にジーコを指名。かつてブラジル代表で10番を背負い黄金のカルテットを牽引したスーパースターは、日本代表でもジャマイカとの初陣から夢のカルテットをピッチに送り出した。前日会見の席でジーコ監督は話している。

「中田英寿と中村俊輔は前で攻撃的な役割を、稲本潤一と小野伸二が主に守備的な仕事をする。82年ワールドカップでのブラジル代表のミッドフィルダーと形は似ているが、それぞれ特徴が異なるので、そこに縛られずに誰かが前に出たら、代わりに誰かが下がるというように、自由に持ち味を発揮して欲しい」

実はジーコ監督は、就任早々に中田と中村を個別に呼び、彼らを核として活動をしていくことを告げていたという。

また、前任の日本代表監督だったフィリップ・トルシエは、1999年にU-20W杯で準優勝。1979年生まれの中心メンバー(遠藤は80年1月生まれ)は黄金世代と呼ばれることになるが、ジャマイカ戦にスタメン出場をしたカルテットは、既に全員が欧州進出を果たしていたこともあり、彼らを追いかける立場にある遠藤が初めてフル代表に招集されるのは翌月のことだった。

王貞治が運転する車に乗せてもらったことも

ジーコが選択した夢のカルテットに比べ、遠藤のアピールが遅れたのはプロ入り後の激動の足跡も影響したかもしれない。鹿児島実業高校を卒業して入団した横浜フリューゲルスでは、ヨハン・クライフの懐刀としてバルセロナの黄金期を支えたスペイン人のカルロス・レシャック監督が、非凡な才能を見抜き開幕からスタメンに抜擢している。

しかし所属クラブは1年後に、まさかの消滅。次に移籍した京都サンガは、パク・チソンや松井大輔らを擁して3年後に天皇杯を制すほどの潜在能力を秘めていたが、1年間でJ2に降格。遠藤はチームの開花を待たずに、ガンバ大阪へ移籍していく運命にあった。

遠藤がJリーガーとして2度も環境を変えていく間に、2歳年上の中田は2度、同年代の稲本と小野もW杯を経験し、中田はローマでセリエA、小野はフェイエノールトでUEFAカップを獲得している。さらに黄金世代より1歳上の中村も日韓W杯への出場は逃したが、「世界で戦うためには欧州へ」という志を実現させていた。

一方で遠藤の最大の特徴は、良くも悪くも慌てないマイペースのメンタリティなのだと思う。大半のアスリートには、平常心を保つために自分との闘いがついて回る。逆にその境地を保つために、ストレス発散の捌け口を設ける。

例えば、その昔スポーツ新聞で巨人担当をしていた時に、王貞治監督(当時)が運転する車に乗せてもらったことがある。球界を象徴するホームラン王は、公の場では常に穏やかでサインを求めるファンにはひとり残らず応える人格者だった。だが密室でハンドルを握った時だけは人が変わる。そう仄聞していた通りに、周囲の運転や世情など様々な話題にブレーキ知らずの見解を連ねていた。

ところが遠藤の場合は、ピッチ上の落ち着き払った姿が、どうやら素の自分だったようだ。ハンドルを握っても「遠藤渋滞」が起こるほどののんびり走行だそうで、世界を見渡しても高速高級車購入の優先順位が極めて高いプロスポーツ界で「お先にどうぞ」の姿勢は極めて異質だったに違いない。

ただし、こうしてどんな時でも慌てない気質は、まさに遠藤の真骨頂であり、そのままプレースタイルに反映されていた。高速化が進むピッチ上では、大半の選手たちがスピードを追求する。ところがその中で遠藤は冷静に逐一状況を見極めているから、少ないタッチで相手の逆や隙を突き最も効率的なプレーを引き出せる。

「あの運動量なら、今のオレにだって出来るぞ」

中田には強靭なフィジカルを基盤とする創造性、中村にはフィニッシュにかけての独創性、小野には誰もが感嘆するテクニック、稲本には一目瞭然のスケールというように、それぞれが判り易い武器を持っていた。

それに対し、概ね3タッチ以内の短時間に凝縮される遠藤の特徴は、その効果が本場欧州で立証されていなかった。実際2006年のドイツW杯では「遠藤のプレーが大好きだ」と公言するジーコ監督も「順番を待つ必要がある」とフィールドプレイヤーでは唯一遠藤をピッチに送り出せていない。

遠藤自身もピッチ上のプレーだけではなく、欧州進出についても急ぐ様子がなかった。黄金のカルテットは、急ピッチな右肩上がりで世界を追いかける日本サッカーの象徴で、だからこそ早くから意欲的に欧州での成功を掴み取ろうとした。しかし遠藤は、その時々で自分が最も輝き、プレーを満喫できる場所がどこなのかを慎重に見定め、その度に導き出した最適解は欧州よりJだった。

確かにカルテットより経験の幅が狭い遠藤には課題もあった。ガンバ大阪に移籍して間もない頃に、かつて欧州制覇を経験し現役を退いていた名手が来日してJリーグを観戦した。既に彼は40歳代に迫ろうとしていた。

「あれが遠藤か?あの運動量なら、今のオレにだって出来るぞ」

多分それをもう少し肯定的に鼓舞したのが、日本代表で遠藤を重用することになるイビチャ・オシムだった。こうして現代サッカーに不可欠なハードワークと守備への献身性を身につけた遠藤の希少価値は高まり、G大阪はもちろん、日本代表でも中核の位置を確保していく。攻撃の加速がテーマとなる現代サッカーで、遠藤の高精度で効率的なタッチは見事に光彩を放っていくのだ。

2008年のクラブW杯準決勝で対戦したマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督は、G大阪との5-3の打ち合いを制した試合後の会見で語った。

「遠藤がトップ下ではなくボランチだったので少々驚いた。もちろん彼なら世界中どこへ行ってもプレーできるよ」

それから4年後に、同じ日本人の香川真司を口説きに行く経緯を考えても、完全なリップサービスというわけでもなかったはずだ。

ジーコ監督が選んだ黄金のカルテットは欧州での刺激を得て成長を加速させ、21世紀初頭の日本サッカー界を牽引した。だが遠藤は遠藤らしくマイペースで熟成し、逆にだからこそ長く最盛期を継続できたのかもしれない。遠藤は国内に留まったからこそ、バラエティ番組等を含めて魔法のテクニックを惜しげもなくファンに披露し続けた。

時代背景の変化を考えても、今後同じレベルで国内に留まる選手が現われるとは思えない。きっと遠藤は、永遠に「史上最高のJリーガー」として語り継がれるはずである。

https://www.soccerdigestweb.com/

Share Button