「ピッチに立って戦いたい…とはまったく思わなかった」なぜ明神智和は憧れの舞台・日韓W杯の初戦でそう思ってしまったのか
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第24回「8人の明神」と称された男の知られざる苦悩~明神智和(2)
「明日のスタメンはないな」
2002年日韓W杯初戦のベルギー戦の前夜、明神智和はそれまでの練習からそう思っていた。
試合の2日前、明神はサブ組でプレーしていたからだ。トルシエジャパンでは、その日のメンバーが試合のスタメンになることが通例だった。
ただ、例外もあった。
「2000年のアジアカップ、初戦のサウジアラビア戦の2日前の練習で、自分はサブ組だった。それで、『もうスタメンがないな』と思っていたんです。だから、試合の出発前、いつもはホテルの部屋で昼寝をしているんですけど、『今日は無理に昼寝をしなくてもいいかな』って思っていたんです。
ところが、ミーティングに行ったら『スタート』って言われて(苦笑)。そういうこともあったので、ベルギー戦(の出場)はたぶんないだろうけど、ミーティングで(先発と)言われるかも……くらいの気持ちではいました」
2002年6月4日、ベルギー戦。日本代表の指揮官、フィリップ・トルシエがミーティングで名前を告げた右ウィングバックは、市川大祐だった。
その時、明神は不思議な感情に包まれた。
「いつもなら、スタメン落ちでショックを受けるし、イラッとするんですけど、その時はそういう後ろ向きの感情にはならなかった。出番がきた時にいけるように『しっかり準備しよう』と、自然に思えたんです。
チームのことを考えて『イチ(市川)でいい』と思ったのか、W杯という舞台にあまりにも緊張して『自分じゃなくてよかった』と思ったのか。今でも自分がそういうふうに思った理由がわからない。こういう感情になったのは、プロになって初めてでした」
過度な緊張があったのは確かだろう。子どもの頃から憧れていたW杯である。しかも、自国開催でメンバー入りし、その舞台に立てるチャンスを得たのだ。明神は、試合前から緊張と興奮でボルテージが上がり、感情を大きく揺さぶられていた。
「選手が入場して、国歌斉唱となるじゃないですか。その際、僕はベンチの前に立っているんですけど、足が震えて、なんか目の前にいる日本の選手たちが違うチームの選手のように見えたんです。
いつもなら、自分は『ピッチに立って戦いたい』と思うんですけど、その時は向こう側に行きたいとか、まったく思わなかった。だから、相当緊張して、スタジアムの雰囲気に飲まれていたんだと思います。たぶん、あの状態で試合に出ていたら、緊張でボール回しとかもふつうにできなかったかなって、今でも思います」
そのベルギー戦、日本は先制を許したものの、鈴木隆行のゴールで同点に追いつき、稲本潤一のゴールで逆転。2-1と相手を突き放した。
その瞬間、稲本がベンチに向かって走ってきた。
「前日だったかな、露天風呂に入っていた時、点を決めたら『オレのところに来いよ』って、イナ(稲本)と話をしていたんです。でも、イナが点を取った時はそんなことも忘れて喜んでいましたね。
イナとはシドニー五輪で、ボランチで一緒にプレー。彼の攻撃力を生かすためにも前でプレーしてもらって、イナも僕の特徴を理解してくれてすごくやりやすかった。そのイナが決めたので、ほんとうれしかったです」
膨らんだ風船が爆発するかのようにスタジアムも歓喜に揺れた。だがワールドカップという舞台は、初出場の日本にドラマチックな展開を容易に許してはくれなかった。稲本の逆転ゴールから8分後、ベルギーに一瞬の隙を突かれ、フラット3の裏を取られて同点に追いつかれた。
「2-1でひっくり返した時、『W杯初勝利、イケるかな』って思ったんですが、そんなに甘くはなかったですね。でも正直、『初戦で負けなくてよかったなぁ』というのが実感でした。みんなも、表情が明るくて、ダメージはなかった。勝ち点1を取れたことで、次のロシア戦につながったので、みんなも、自分も、前向きな気持ちでしたね」
試合の翌日、露天風呂ではDFの選手たちが集まって話をした。話題は、2点目の失点シーンだった。トルシエの戦術どおりラインを高く押し上げたが、相手に絶妙のタイミングで裏を取られて失点した。W杯で勝つために”フラット3”をそのまま実践していいのか、議論を重ねた。
「(DFラインの)背後を突かれてやられるのは、大会前の北欧遠征に行った時からあったんですが、そのままの状態でW杯の直前合宿に入った。それで、なかなか修正する機会がなくて、自分たちも不安に感じていたことでした。それが、一番大事な試合で出てしまって、次の日には守備陣を中心にして、修正に向けての話し合いをしました」
トルシエからはとにかくラインを上げるように言われたが、世界は日本を分析し、その弱点を突いてくる。ここで何かしらの修正をしなければ、また同じようにやられてしまう可能性が高い。それまでフラット3を武器に高いラインをキープして戦ってきた経緯はあるが、どうにかしなければならない。話をしているうちに、基本的な原点に立ち返ることで、ひとつの結論に達した。
「いろいろ話をしましたが、結論としては『相手を抑えればいいんでしょ』っていうことでした。そのために、ピッチにいる自分たちで判断していこうと。自分たちの判断でラインを下げたとしても、相手にやられなかったら絶対にオーケーなので、みんなで声を掛け合いながら、全員で判断していこうということになりました」
全体の方向性が決まったあと、明神は同じ右サイドのセンターバック、松田直樹と話をした。
「マツ(松田)とは、お互いにどうしてほしいのかということを話して(互いのプレーの)すり合わせをしました。しっかりコミュニケーションを取って、お互いに近くでサポートをしようと。守備の時はカバーするとか、攻撃の際は裏のスペースをケアするとか、そういう感じで基本的なことをしっかりやれるようにしました」
グループリーグ2戦目、ロシア戦の前夜。明神は、今度は「明日は(スタメン)くるな」と思っていた。試合2日前の練習で、レギュラー組でプレーしていたからだ。
「トルシエに何か言われたわけじゃないですけど、これまでの流れと雰囲気でわかりました。『スタメン』とはっきり言われたのは、試合当日のミーティングです。『ついに来た!』という感じでしたね」
グループリーグ突破に向けて、重要な試合になったロシア戦。明神はいつものポジションについた。超満員の横浜国際競技場は、試合前から異常な盛り上がりを見せていた。しかし明神は、ベルギー戦の時に襲われたような緊張感はなかった。
「初戦で、すべての緊張を味わい尽くしたんですかね(苦笑)。自分自身初のワールドカップのピッチでしたけど、雰囲気もわかっていたし、相手の選手のことも頭に入っていて、やらないといけないことも整理できていた。すごくいい状態で試合に入れたのを覚えています」
ベルギー戦の失点の反省から、選手たちはこの試合でのラインの上げ下げは慎重に行なった。その様子を見たトルシエは、怒りを爆発させるように「ラインを上げろ!」と声を張り上げた。
「観客の応援のおかげで、(トルシエの声は)あまり聞こえなくてよかったです。監督の言うことを忠実にやって勝てるほど、世界は甘くない。
実際、相手はいろいろと考えて裏をかいてくるので、その瞬間、瞬間で(ピッチにいる)自分たちが(その時の状況を)判断してやらないといけない。トルシエの指示には『OK、OK』って返しながら、自分たちで判断してプレーできていたので、うまく守れている感はありました」
いくつか決定的なピンチを迎えたものの、何とか乗り越えた日本。後半51分、稲本の挙げたゴールを全員で守りきって、W杯初勝利を挙げた。勝ち点3を獲得し、グループリーグ突破に弾みをつけた。
「いろんな意味で大きな勝利だったと思います。ロシアは僕らのグループでは一番力があると言われていて、チームのやり方、個人対策を念入りにやってきた。その成果が勝利につながって、自分たちは”できる”という手応えをつかんだ。
僕は選手としてあの場にいられて、ピッチでキックオフと終了の笛を聞けたことが、すごく大きな財産となりました。自分のサッカー人生のなかで、間違いなく一番の試合でした」
ロシア戦の勝利によって、勢いに乗った日本は続くチュニジア戦も2-0と快勝。首位でグループリーグを突破した。
開催国とはいえ、2度目のW杯出場でグループリーグを突破。その快挙は、世界でも驚きをもって伝えられた。また、ロシア戦のテレビ視聴率は66.1%という驚異的な数字を記録した。これは、1964年東京オリンピックの女子バレー(日本vsソ連/66.8%)に次ぐ、歴代2位の数字だ。
日本代表の快進撃を受けて、日本国内は未曽有の盛り上がりを見せた。
「代表のスタッフなどから『国内がすごいことになっている』ということは聞いていたんですけど、それがどのくらいなのか、あまりピンとこなかったですね」
チームは、静岡・磐田の静かな宿舎にいた。明神は世俗から離れた場所でリラックスして過ごし、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦に向けて英気を養っていた。
明神智和(みょうじん・ともかず)1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。