なぜか…06年ジーコ時代、日本代表で輝けなかった名選手(5)まさか屈辱…偉大な男の黒歴史
ジーコ監督率いる日本代表は2002年に発足し、2006年ドイツワールドカップをもって終焉を迎えた。その間、様々な選手が名将の下でプレー。中村俊輔や玉田圭司らが存在感を放った。一方で、活躍できなかった選手もいる。今回は、ジーコジャパンにおいて輝けなかった選手を紹介する。今回は第5回。
MF:遠藤保仁
生年月日:1980年1月28日
日本代表成績:152試合15得点
ジーコジャパン成績:39試合3得点
日本が誇るキックの名手、遠藤保仁は1998年に横浜フリューゲルスでプロデビュー。しかし、同クラブが消滅したことで、翌1999年には京都パープルサンガへ籍を移している。2001年には、後に運命のクラブとなるガンバ大阪へ移籍。翌2002年より監督に就任した西野朗の下で中心的存在となり、2003シーズンには自身初のJリーグベストイレブンに輝くことになった。
日本代表デビューを果たしたのはG大阪在籍2年目の2002年。ジーコジャパンにとって2戦目となるアルゼンチン代表戦でのことだった。それ以降、遠藤はコンスタントに招集を果たすことに。2004年に開催されたAFCアジアカップではレギュラーとして奮闘。決勝戦は準決勝バーレーン代表戦での不可解な退場処分により欠場となったが、優勝に大きく貢献することになった。
その後も遠藤はジーコジャパンで多くの出場機会を得ていた。しかし、2005年3月に中田英寿が約1年ぶりに代表復帰すると、ジーコ監督は同選手をボランチで起用。遠藤はそのあおりを受ける形で、ベンチへと追いやられてしまった。そして迎えたドイツワールドカップ。遠藤はメンバーにこそ入ったものの、中田や福西崇史の壁を超えられず、フィールドプレーヤーで唯一ピッチに立つことができないまま大会を去ることになった。