中田英寿は「ピッチ外では優しかった」 “職人”明神智和が明かす日韓W杯の舞台裏
【2002年日韓W杯戦記|明神智和】自分たちがまるでアイドルのように報じられるフィーバーぶりに驚愕
カタール・ワールドカップ(W杯)が11月20日に開幕する。森保一監督率いる日本代表はグループリーグでドイツ代表、コスタリカ代表、スペイン代表と同グループとなり、“死の組”とも言われる厳しい状況のなか、史上初の大会ベスト8入りを目指す。
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7大会連続となる世界の大舞台。これまで多くの代表選手が涙を流し、苦しみから這い上がり、笑顔を掴み取って懸命に築き上げてきた日本の歴史だ。
「FOOTBALL ZONE」では、カタール大会に向けて不定期企画「W杯戦記」を展開し、これまでの舞台を経験した人物たちにそれぞれの大会を振り返ってもらう。2002年の日韓W杯で計3試合に先発出場した明神智和(ガンバ大阪ユースコーチ)が、自国開催の思い出を紐解く。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小田智史)
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21世紀最初のW杯となった日韓W杯は、ヨーロッパと南北アメリカ以外で初めての開催、アジア初開催、初の2か国共催となった。イングランド代表MFデイビッド・ベッカム、ブラジル代表FWロナウド&FWロナウジーニョ、ドイツ代表GKオリバー・カーンらスター選手が大会を彩り、日本と韓国で繰り広げられた熱い戦いに、観る者は熱狂した。あまりのフィーバーぶりに、明神は驚きを隠せなかったという。
「自国開催のW杯メンバーに入り、大会を戦えたことが本当に名誉であり、誇りに思います。(日本代表が滞在した)ホテルは隔離されていてすごく静かで、選手としてはありがたい環境を作っていただきました。ただ、いざテレビをつけてみると、朝やお昼のニュースで自分たちのことがまるでアイドルになったかのように報じられていて(苦笑)。落ち着いた環境とは対照的に、日本国内が盛り上がってフィーバーしていた印象が強いです」
日韓大会は、当時イタリア1部パルマでプレーしていた中田英寿、オランダ1部フェイエノールトで輝きを放った小野伸二(現・北海道コンサドーレ札幌)、イングランド1部アーセナルにレンタル移籍していた稲本潤一(現・南葛SC)と、日本サッカー界を牽引する華やかなタレントがいた。なかでも、1歳年上の中田はカリスマ的存在であり、良き兄貴分でもあったと回想する。
「ピッチ内で言えば、ヒデさんはまず自分に一番厳しい人。だからこそ、『ここに出してくれ』『もっと強いパスをくれ』と、人にも高い要求をする。当時、世界基準を持っていたのはヒデさんら数人だけ。ヒデさんがセリエAで活躍していて、日常の練習をこれほどの意識とインテンシティー(強さ)でやらなければいけないのか、と。自分に厳しくしている姿を見ると、『俺らもやらなきゃいけない』と思いましたし、口で言うわけではないですけど、練習からヒデさんが示し続けてくれていたんだとあとから気付きました。
でも、ヒデさんはピッチを離れると優しかったです(笑)。ヒデさんはマツさん(故・松田直樹)とか(1995年の)ワールドユースを戦った世代、僕は(2000年の)シドニーオリンピックを戦ったヤナギ(柳沢敦)や黄金世代のイナ(稲本)と中田浩二、それにアレックス(三都主アレサンドロ)とかはよく一緒にいましたけど、食事会場や練習場へ行く時にサッカーだけでなくたわいもない話をして、よく全体を見ているなと思いました。僕とはそこまで年齢の差はなくて、お兄さんみたいな感じでした」
同じ右サイドを担った松田直樹とは絶妙な信頼関係を構築
日韓W杯の日本代表と言えば、直前の欧州遠征でメンバーから外れていた34歳の中山雅史、31歳の秋田豊と経験豊富なベテランがサプライズ選出されたことも話題となった。最年長の中山は、グループリーグ第2戦のロシア戦(1-0)で後半27分から途中出場したのみ、秋田は大会を通して出番はなかったが、2人は控えの立場を理解したうえで、先頭に立ってチームを盛り上げていった。その真摯な姿勢に、明神も刺激を受けたという。
「直前の合宿にはいなかったゴン(中山)さん、秋田さんがチームのことを盛り上げて、支えてくれました。ピッチ外で細かいところまで声をかけてくれて、締めるところは締める。でも、ただサポートに徹するだけではなくて、2人から『俺も試合に出てやる!』という強い想いや練習に対する熱い姿勢が伝わってきました。それを間近で見ていた下の世代は『ピッチで自分の100%を出さないといけない』と思いました」
日本はグループリーグ初戦でベルギー代表に2-2と引き分けたが、続くロシア戦は稲本の2試合連続ゴールで歴史的なW杯初勝利。試合後のロッカールームには当時の小泉純一郎首相が駆け付けて祝福したことは語り草だが、その場の雰囲気にチームワークの良さを感じたと明神は語る。
「小泉首相は何人もSPの方がいるなかでロッカールームに入ってきてくださって、選手たちを盛り上げてくれる温かさ、親しみやすさを感じました。2001年5月、相撲の横綱・貴乃花さんが右膝を亜脱臼しながら優勝して、小泉首相が表彰式で『感動した!』と賛辞を送ったことが話題になりましたが、ゴンさんが小泉首相に『感動しましたか?』と(笑)。即興で首相に訊いて、『感動した!』という言葉が出て、『おおー!』と盛り上がったのを覚えています。小泉首相の温かさ、ゴンさんの空気作り、とてもいいチームワークでした」
フィリップ・トルシエ監督が採用した3-5-2システムの中で、明神は右ウイングバックながら中盤センターのスペースも埋めてみせた。“フラット3”の右ストッパーを務めた松田とは、「苦しくなったらパスを出すんで頼みます」と伝えていたとおり、苦しい状況に陥った時にフォローしてくれる絶妙な関係性だった。
「(グループリーグ)2試合目のロシア戦、僕は試合直前にスタメンで出ることが決まりました。マツさんには、『右サイドでしっかり守備するので、攻撃で苦しくなったらもうバックパスするんで頼みます』と、同じ右サイドを担当する選手同士、ちょっとしたコミュニケーションを図ったら、『任しとけ』『頼んだよ、ミョウちゃん』みたいな感じでした(笑)。(1歳年上の)マツさんとはお互いに仲良くしていたので、ピッチ上では信頼し合っていい関係を築けていたと思います」
忘れられないトルコ戦の苦い思い出
グループリーグ2勝1分で決勝トーナメント進出を果たした日本は、ベスト16でトルコと対戦。前半12分にミスから与えたコーナーキック(CK)で失点し、鈴木隆行と市川大祐を投入した後半開始から明神は右ウイングバックからボランチへとポジションを移したが、1点が遠く、0-1で敗れた。「トルコ戦のことはあまり覚えていない」という明神の中で、後半18分に鈴木隆行からパスを受け、ペナルティーエリア外の左45度付近から右足でミドルシュートを放つも、しっかりミートできずに枠を捉えることができなかったシーンは、苦い記憶として頭に残っている。
「自分の攻撃力をどう上げていくかという思いがあったなかで、そこでゴールを決める、枠に飛ばせるように力を上げていかないといけないと痛感しました。チームのまとまり、戦術・規律は高いものがあっただけに、ベスト16という結果は悔しいの一言でした。自国開催ということもあってグループリーグはロシア、ベルギー、チュニジアで、決勝トーナメント1回戦がトルコ。今年のカタールW杯で日本がドイツ、スペインと同居したように、世界トップクラスの国が入ってくる確率が高いなかで、組合せで言えば、日韓W杯はもっと上に行けたんじゃないかと思います」。
明神は日韓W杯後も柏レイソル、ガンバ大阪、名古屋グランパス、AC長野パルセイロでプレーし、41歳まで現役を続けた。W杯の経験はキャリアにどのような効果をもたらしたのか。
「ベスト16に行った喜びよりも、自国開催のW杯で日本代表のユニフォームを着て戦えたのは名誉なこと。大会から20年が経っても当時を振り返る機会をいただくと、自分がそういう舞台でプレーしていたんだと思い出します。あの日韓W杯はどの大会よりもいろんなシーンを覚えているし、記憶に残っている出来事が多いです。『あのW杯の基準を常に目指して戦わないといけない』と意識は間違いなく上がりましたし、日本代表を背負って戦ったメンバーと見られるプレッシャーがあるわけで、自分を強くしてもらいました」
引退して、指導者へと転身した明神の中で日韓W杯は今なお特別な大会だ。
(文中敬称略)
[プロフィール]
明神智和(みょうじん・ともかず)/1978年1月24日生まれ、兵庫県出身。柏ユース―柏―ガンバ大阪―名古屋―長野。J1通算497試合26得点、J2通算20試合0得点、J3通算38試合0得点、日本代表通算26試合3得点。シドニー五輪や日韓W杯でも活躍した職人タイプのボランチ。2020年から古巣であるガンバ大阪アカデミーのコーチを務め、日本サッカー界の発展に尽力する。



