【G大阪】松田浩監督、人生経験重ねどんな苦境にも屈せず 「弱者のスタイル」受け入れJ1残留

本当は苦しかったに違いない。

歓喜に沸くスタジアムを見渡す。アウェーにもかかわらず、対戦相手のサポーターからも温かい拍手が送られた。

さまざまな感情が脳裏をかすめる。

「幸せ者だな、と。皆さんからの『マツダ! オレ!』を聞いて、こんなにいい思いをさせてもらって、いいのだろうか。どこかで楽しかった。毎日、うれしくて仕方なかったです」

5日のJ1最終節。辛うじて残留したガンバ大阪松田浩監督(62)は、しみじみとそう語った。

鹿島と0-0で引き分け。他会場の結果を待っての残留だった。

コーチとして招かれたのは、8月初旬のこと。すぐに片野坂知宏監督が解任され、後任となる。

J1のクラブを率いるのは08年の神戸以来、14年ぶりのことだった。

当時は若かった。

神戸は大久保嘉人レアンドロのJ屈指の2トップを擁し、07年シーズンは2人で29得点を稼ぐ。ただ、主将を務めていた元日本代表MF三浦淳宏と起用法を巡って衝突し、三浦がチームを去る事態もあった。

08年はJ1で10位となり、09年も神戸で指揮を執ることはほぼ決まっていた。だが、クラブ側は突如、ブラジル人のカイオ・ジュニオール監督(16年に他界)を招聘(しょうへい)する。契約をほごにされたとして、ケンカ別れ同然で神戸を去ることとなった。

14年も前のことである。松田監督、40代だった。

以降、J2栃木を5シーズン率いる。JFAのナショナルトレセンコーチ、長崎の育成部長を経て、J2長崎を率いることになったのは21年の途中から。監督職からは7年以上の空白があった。今年6月に退任し、G大阪へ。

おそらく、50代の頃は順風満帆とは言えなかったかも知れない。ただ、どんな形であれ、再びJ1の舞台に監督として戻ってきたのである。

「まさか、自分がこういう立場で、ここにいるとは信じられない。人生、何が起きるか、分からないですよね」

神戸を率いていた頃は若かったこともあって、どこか、とげとげしい印象だった。

今は、かつての姿とは少し違う。

勝利への執念は昔とひとつも変わらなくても、人間味が増したとでも言うのだろうか。

人生経験を重ねたことで、どんな苦境にも屈しない。そんな印象を抱いた。

勝たねば自力での残留ができなかった鹿島戦で、チームのシュートはFW宇佐美が放った1本だけ。

最終節の90分間こそが、今季のG大阪の苦闘を物語る。

「超攻撃」の看板を掲げ、常勝軍団と呼ばれたかつての姿はなくなった。  それでも、どんな形であれ、生き残ったのである。

宇佐美にDF昌子、GK東口ら、日本代表経験者がプライドを捨て、宇佐美の言葉を借りるなら「弱者のスタイル」を受け入れての残留だった。

最後に、その土台を築いたのが、松田監督だろう。  終盤は4試合連続完封。就任間もない8月20日広島戦で5失点したのを除けば9試合で5失点、うち7試合が完封だった。

「ミッションを受けて、選手らを見た時に、彼らは必ずやってくれると信じていました。(Jリーグ開幕時からの)オリジナル10のガンバを、J2に落とすわけにはいかなかった」

日が暮れたカシマスタジアムには、冷たい風が吹いていた。

いつもより少し早い冬の気配を感じながら、14年ぶりに率いたJ1で大きな仕事を成し遂げた充実感に浸った。【編集委員=益子浩一】

◆松田浩(まつだ・ひろし)1960年(昭35)9月2日、長崎県生まれ。長崎北から筑波大。大学の1学年下に風間八宏氏らがいた。マツダ(広島の前身)時代、当時コーチだったハンス・オフト氏の助言でFWからDFにコンバートされたこともある。広島から当時JFLの神戸へ。引退後は指導者となり、02年途中から神戸監督に就任。福岡を経て06年途中から神戸監督に復帰した。

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