【遠藤保仁セレクト】J1・500試合の中から本人が選ぶ「記憶に残る5つのゲーム」 SOCCER DIGEST Web 10月23日(金)11時30分配信

チームの消滅、J2降格……。プロ人生の始まりは順風満帆には程遠かった。

 遠藤保仁は2015年10月19日に行なわれたJ1第2ステージ14節・G大阪対浦和戦で、Jリーグ史上4人目タイとなる「J1通算500試合出場」を達成した。プロとなってから足掛け18年目。その大半の試合で先発出場したなかでたどり着いた偉業だった。

1998年、鹿児島実高を卒業した遠藤は、横浜フリューゲルス(横浜F)でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートした。当時の監督はカルロス・レ シャック氏。現役時代にはスペイン代表としても活躍した氏に見出され、ルーキーながらJリーグ開幕戦・横浜Fマリノス戦(以下、横浜FM)ですぐさまプロ デビューを飾った。

“横浜ダービー”とあって、横浜国際陸上競技場に集まった観衆は5万2083人。満員に膨れ上がったスタジアムの真ん中で、興奮を覚えながらプレーし、その楽しさを実感したことが、今日まで続く長いプロ生活の礎になったという。

「まだまだ力は足りていなかったとは思うけど、開幕戦を戦い『ああ、こういうことか』と。プロとして戦うことの責任や楽しさ……いろんな想いをあの1試合 で全部、一気に感じ取ることができたからね。それによって『ここで自分は戦い続けるんだ』という覚悟を持てたし、以降、プロ1年目のシーズンは半分くらい リーグ戦に出場して、その想いはより強くなった。そう考えても、あの1年目は僕にとってすごく大きかった。当時、フリューゲルスに在籍したスペシャルな選 手たちと一緒にサッカーができたのも、最高の刺激だったしね。ただ……そこからJ1で500試合も出場するなんて、想像もしていなかったけど」

事実、遠藤のプロサッカー人生は、そこから始まる未来を容易に描けるほど順風満帆ではなかった。プロ1年目の終わりに横浜Fの消滅が決まり、チームを追わ れた彼は京都パープルサンガ(以下、京都)に籍を移した。京都在籍2年目にはJ2降格を経験。三浦知良や朴智星、松井大輔、望月重良ら、錚々たる顔ぶれを 揃えながらも結果を残せなかった現実が、彼に改めて『勝つ』ことの意味を考えさせた。

500試合出場に不可欠なものとは――「そのどれが欠けても、今の僕はなかった」(遠藤)。

 2001年、G大阪移籍後の足跡は、特筆せずとも知られたとおりだ。遠藤は、日本代表として三度のワールドカップを経験し、国際Aマッチの最多出場(現在152試合)を更新しながら、チームでも揺るぎない地位を築き上げた。

これまで出場したJ1・500試合のうち、大方で先発しているのがなによりの証拠。さらに言うなれば、Jリーグと並行してAFCチャンピオンズリーグ等でも存在感を示し、アジアでもその名を轟かせながら、自らの力で『遠藤保仁』の価値を高め続けてきた。

その裏でどんな戦いがあったのか。本人は「特別なことはなにもしていない。ただ、当たり前のことを、当たり前のようにやってきただけ」とサラリと振り返ったが、一方で仲間や支えてくれた人たちへの感謝の想いを口にする。

「プロとして自分を磨くこと、巧くなりたいという想いで変化を求めることは努力ではなく、プロとして当たり前のこと。ただ、それをキャリアとして積み上げ ていくうえで、仲間の存在は大きかったと思う。サッカーはひとりではできない。自分の良さを引き出してくれる仲間がいて、そのプレーを監督に認められる。 だから試合に使ってもらえる。結果を残すためのチャンスをもらえる」

「あと、大きな怪我をしなかったのも大きかった。病気で戦列を離れた時期はあったけど、プレーに支障をきたす怪我はなかったから。もともと痛みに強いこと もあり、少々痛くても試合でプレーすれば、なぜか治ることも多かったけど、それを信じてくれる監督、スタッフがいなければ、試合に出続けることはできない からね。そう考えると、やはり僕に関わってくれたすべての仲間、スタッフ、家族がいたからこその“500試合”だったんだと思う。そのどれが欠けても、今 の僕はなかった」

「600試合はさすがに難しいでしょ。でも、僕は正剛さんを追いかけたい」(遠藤)

 稀代の名手に、今後のサッカー人生について問いかけた。

――現在35歳、プロ18年目のシーズンに描く未来とはどういうものですか?

その質問に少し考えた後、「500試合といっても、一番にはほど遠いからな」と遠藤。その“一番”とは、彼と時を同じくしてJ1通算600試合出場を達成した名古屋のGK楢崎正剛を指している。

「500試合なら誰でもいけそうな気がするけど、600試合はさすがに難しいでしょ。でも、僕は正剛さんを追いかけたい。消滅したフリューゲルスで一緒に プレーした仲間も残り少なくなったことだし、あと100試合と考えれば……単純に数えて3年はかかりますからね。先のことは分からないし、見えない未来を 想像するのは好きじゃないけど、これまでどおり、やるべきことをやってそこに到達できたらと思う。ただし、プロである以上、これまでもこれからも、現状維 持でいいと思ってサッカーをすることはない。その年になったからこそ楽しめる身体の変化や感覚を楽しみながら、これからも結果を求め続けたい」

現状維持でいいと思ってサッカーをすることはない――。この言葉こそ、遠藤が今も第一線で活躍し続けられる理由だろう。

常に進化を求め、そのために「やるべきことを当たり前のようにやる」。口で言うには簡単で、体現するには最も難しいことをコツコツ、コツコツと。それこそが『結果』を導き出す最善の策であり、『600試合』にたどり着く唯一の方法だという信念のもとに。

遠藤保仁が語る「記憶に残る5つのゲーム」/やはり“あの試合”を選出!

 遠藤保仁セレクト「記憶に残る5つのゲーム」

J1通算500試合出場――。偉業達成までに積み上げてきたその歴史の中から、特に印象に残るゲームを遠藤本人にセレクトしてもらい、その思い出を語ってもらった。

◇ ◇ ◇

■GAME1(プロ初出場)
1998年3月21日 第1ステージ1節
横浜M 1(延長)2 横浜F

得点:M=サリナス(50分)
得点:F=永井(18分)、佐藤(95)分

遠藤コメント
「満員のスタジアムで、プロ1年目の開幕戦に出場し、その楽しさを肌身で実感したうえ、この先プロとして戦っていくんだという覚悟を備えられた。これがのちのサッカー人生を作り上げるうえで大切な礎になった」

■GAME2(プロ初ゴール)
1998年8月1日 第1ステージ15節
横浜F 3-2 鹿島

得点:F=永井(52分、59分)、遠藤(87分)
得点:鹿=柳沢(31分)、増田(61分)

遠藤コメント
「そんな簡単にゴールを取れるとは思っていなかったけど、当時のフリューゲルスには錚々たる顔ぶれがいたからね。だから正直、こんなに時間がかかるとも思っていなくて(笑)。だから、決めた時は『やっと取れた~』って感じでした」

■GAME3(磐田の強烈なインパクト)
1998年10月3日 第2ステージ9節
横浜F 0-4 磐田

得点:F=なし
得点:磐=中山(38分、60分、86分)、古賀(89分)

遠藤コメント
「実は、この年の磐田戦はいずれも自分はベンチ外だったんだけど、当時の磐田は黄金期で、圧倒的に強くて。アウェーで0-4と大敗した後、ホームでも0-4と完敗。首位を走るチームって、こんなにも強いのかと思い知らされたという意味で、インパクトに残っている試合」

遠藤保仁が語る「記憶に残る5つのゲーム」/「当時の○○は強過ぎた」と回想。

■GAME4(黄金期の磐田と初対戦)
1999年11月23日 第2ステージ14節
京都 2-6 磐田

得点:京=三浦知(48分)、シーラス(77分)
得点:磐=高原(16分、82分)、三浦文(25分)、西(55分、68分)、清水(89分)

遠藤コメント
「プロ1年目に磐田の強さを感じていたなかで、僕が初めて実際に出場した磐田戦がこの試合。で、この結果だからね。マジ、当時の磐田は強すぎた。ただ、そういう力の差を若い時に痛感できたことは、自分の物足りなさを正しく受け止める意味で、すごく大事だった」

■GAME5(初のリーグタイトル)
2005年12月3日 34節
川崎 2-4 G大阪

得点:川=寺田(37分)、谷口(62分)
得点:G=アラウージョ(12分、89分)、宮本(56分)、遠藤(79分)

遠藤コメント
「プロになってからの初タイトルは横浜フリューゲルス時代の天皇杯で味わっていたけど、Jリーグのタイトルは初めてだったからね。1年を通してのタイトルは重みも違うし、それまでも獲れそうで獲れないシーズンが続いていたから。これは純粋に嬉しかった」

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