森島寛晃が責任を痛感した監督の寝言とは。終了間際の失点で優勝を逃した「長居の悲劇」の衝撃
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第20回最終節に首位から陥落した悲劇の裏側~森島寛晃(2)
2005年12月3日、首位のセレッソ大阪は長居スタジアムでFC東京とのシーズン最終戦を迎えた。セレッソが勝てば優勝というなか、長居には、43927人のファン&サポーターが集結した。
キックオフの瞬間から森島寛晃は、果敢に相手にアプローチし、追い回した。33歳になっていた森島はこのシーズン、体力面を考慮され、試合途中に交代することが多かったが、そんなことはお構いなしにスタートから飛ばした。
それには、理由があった。
「2000年、優勝を逃した時、優勝がかかった試合をどうやって戦ったらいいのかわからなかったんですよ。この時は磐田で優勝経験の豊富な名波(浩)に電話をして、大事な試合の戦い方を聞いたんです。名波からは『大一番はみんな硬くなるんで、まずは守備を一生懸命頑張ってやると自分もチームも落ち着くぞ』って言われました。それで自分はスタートから必要以上に相手を追いかけまわして守備をしたんです」
名波には、西澤明訓も電話をして同じことを聞いていたという。その西澤が、前半3分、久藤清一が上げたクロスを頭で決めた。「アキは大一番に強い。ほんまにやる男やなぁ」と感心しつつ、西澤を祝す輪の中に入っていった。
「このゴールはすごく大きかったですね。緊張感があるなか、アキのゴールで雰囲気がすごく盛り上がったし、やれるというみんなの自信につながった。(得点が)早いタイミングというのはあったけど、その後の戦い方を有利に展開できるという意味でも大きかったと思います」
だが、この失点で火がついたのか、それとも胴上げシーンだけは見たくないと思ったのか、FC東京が攻勢に転じる。チャンスを何度か作ったあと、前半20分、鈴木規郎のゴールで同点に追いつき、試合を振り出しに戻した。
森島は、追いつかれても冷静だった。
「追いつかれても不思議とヤバいというのはなかったです。とくに焦りもなかったですし、まだこれからやろっていう気持ちで戦っていました」
FC東京は西澤に入るボールを警戒し、ジャーンが徹底的に潰しに来た。背後から厳しいチャージを受けて転倒し、西澤はたびたび表情をしかめた。森島もハードな守備に手を焼き、前線の攻撃がつながらない。いつもの連携がもうひとつというなか、前半35分、古橋達弥が倒されてPKを得た。苦しい時間帯でのPKは、チームが息を吹き返し、再びリードできる絶好のチャンスだった。だが、キッカーのゼ・カルロスが蹴ったボールはGK土肥洋一にはじかれ、相手にクリアされた。
「突き放すチャンスやし、入れておけよって感じだったんですけど、外してしまい……(苦笑)。こういう大きな試合では、チャンスを決めていかないと勝つのは難しくなる。この時は大きなチャンスを逃したことで、あとに響かなければいいなって思っていました」
試合は1-1のまま、前半を終えた。
同時刻キックオフの最終節。この時点で、試合をリードしていたのは、試合前3位の浦和と4位の鹿島で、暫定1位、2位になり、セレッソは暫定3位になっていた。ロッカールームでは、とくに焦ったり、興奮することはなかった。チームの雰囲気として「これからや。まだいける」と森島は感じていた。
後半3分、PK失敗の借りを返すかのようにゼ・カルロスが豪快なシュートを放ち、そのこぼれ球に西澤が反応し、決めた。FC東京戦に至る間に「モリシを胴上げしたい」と語っていた西澤は、この日2ゴールと結果を出した。
「このゴールは、めちゃ興奮しましたね。1点目よりも盛り上がりましたもん。前半、先制点をとってからなかなかチャンスがなくてPKも外していたんで、後半どうやって点をとるのかを考えていたんです。それを後半が開始されてすぐにアキが結果を出してくれて。すばらしいゴールやったし、やっぱこいつやるなってほんまに思いました」
ここからセレッソはFC東京に押される展開になるが、体を張り、カードもいとわないチャージでチャンスを潰し、得点を許さない。森島も、この1試合に賭けるすごみを見せ、イエローカードをもらいながらも相手を潰した。
後半37分、森島は徳重隆明と交代した。
このシーズン、試合中盤から後半に交代することが増え、その流れを踏むものだったが、この時だけは名残り惜しそうにピッチから去る姿が印象的だった。
「いけるところまでいって交代するのがこの試合だけじゃなく、シーズン通しての自分の起用法だったんで。ただ、この時は疲れもなくて、なんとか最後までピッチにいたかったですし、もう交代してしまうのかっていう思いはありました」
この前の2試合は、森島が交代したあと、同点に追いつかれ、勝ちきることができなかった。この試合に限っては、自分が最後までピッチに立つことで嫌な流れを森島は断ち切りたかったのだろう。それは、この日のサポーターも同じ気持ちだったように思える。いつもなら拍手で送られるが、この日はなぜ交代なのか、優勝の瞬間までモリシにピッチにいてほしい、そんな声にならない空気が充満していた。
ベンチに戻った森島は、ベンチコートを着て、選手の動きを追った。ピッチ上では依然、緊迫した状況が続いた。
「なんとか、勝ってほしい」
森島は、試合を見ながら知らないうちに全身に力が入っているのを感じた。
この時点で、セレッソはリードしており、このまま試合が終われば優勝だった。ピッチで戦う選手はもちろん、森島の耳にも他会場の結果は入ってこなかった。
アディショナルタイム寸前の89分、 FC東京は右からのコーナーキックを得た。
「終了間際のコーナーキックは、サッカーあるあるじゃないですけど、ほんまに一番危ないじゃないですか。だから、蹴る前からめちゃくちゃイヤな感じがありました。逆にFC東京の立場でいうと、この時間でのセットプレーは、すごいチャンス。もうイヤやなぁ。みんな、なんとかしのいでくれよって思っていました」
森島は、祈るような気持ちでベンチに座ってプレーを見守っていた。デザインされたコーナーキックからドフリーで放たれたシュートはディフェンダーが一度は体でブロック。そのボールはセレッソの選手の前ではなく、今野泰幸(FC東京)の前にこぼれた。今野はそれを胸トラップして足元に落とし、左足で振り抜いた。
そのままボールがゴールネットに突き刺さり、森島はベンチで頭を抱えた。
「その瞬間は今もスローモーションのように覚えています。シュートをブロックしたあと、人がめちゃくちゃおるのにボールが今野のところにスポんと落ちて、打たれた。その時、誰かいけやって叫んだんですけどね。でも、なんで、そこにボールがこぼれて、決められるのかなと……。決められた瞬間、ちょっと今野が嫌いになりました」
2-2が表示された電光掲示板のタイムが消え、3分のアディショナルタイムに入った。同点弾で失意の底に沈んだ選手の足取りは幽霊のように力がなく、1点をとりにいくための気持ちを整えるのに、3分は短すぎた。どの選手もショック状態のまま時間が淡々と過ぎていった。
「ここを耐えられたら優勝できるというワンプレーだったけど、最後の最後で相手にやられて、ガクンとなってしまった。まだ、3分間あったけど、気持ちを切り替えてというのはほんまに難しかった。過去3回の苦い経験で、笛が鳴るまで何が起こるかわからないから、最後の最後まで勝ったという気持ちにならずに全力でプレーしようと言っていたし、みんなもそのことを理解してやっていたと思うんですが……。またかと思うと、ほんまに悔しかったですね」
試合終了の笛が鳴ると、スタジアムは通夜のように静まり返った。ほどなく電光掲示板にG大阪が川崎Fに4―2で勝利した結果が映し出され、優勝を決めた。セレッソは引き分けに終わり、首位から5位まで滑り落ちた。
その夜、森島は選手数人と食事に出かけた。もともと飲めるタイプではないが、その日はやけにお酒が進んだ。
「負けた時って、その瞬間も悔しいですけど、時間の経過とともにジワジワくるんですよ。ご飯食べながらあーって悔しさがこみ上げてきて、ほんまにしんどかったです」
西澤は、モリシを胴上げできなかったことを悔いていた。チームでは年齢的に上になり、チームのバランスもよくて、勢いもあった。このチームで優勝したい気持ちが強かった。もう1点決めていればと思ったが、それは森島も同じ気持ちだった。
自分が決めていればチームは勝てたのではないか。
森島がそう思うのには、セレッソの主軸としての責任感もあるが、それまで3回優勝を逃してきたなか、ある監督の言葉が胸に突き刺さっていたからだ。天皇杯での優勝を逸したあと、監督と食事をしたが、指揮官は疲れもあって、その場で寝てしまった。その際、監督が寝言で「モリシが入れておけばなぁ」とつぶやいた。それを聞いた森島は「やっぱり俺が入れておけばって思っていたんや」と思い、責任を痛感した。
FC東京戦で西澤は結果を出したが、自分は得点をとれなかった。森島は、敗戦の責任と自分自身への悔しさを抱え、眠れない夜を過ごした。
(文中敬称略/つづく)
森島寛晃(もりしま・ひろあき)1972年4月30日生まれ。広島県出身。静岡県の名門、東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)から、1991年にヤンマーディーゼルサッカー部に入団。同チームが母体となったセレッソ大阪が1995年からJリーグに参入。1年目から二桁得点を決めるなど、チームにとって不可欠な存在となり、「ミスターセレッソ」「モリシ」の愛称でサポーターから親しまれた。日本代表として1998年、2002年ワールドカップ出場。チュニジア戦で得点を決めた。08年に現役を引退。その後、チームのアンバサダーや強化部を経て、2018年12月より株式会社セレッソ大阪代表取締役社長に就任した。



