「バットマン」宮本恒靖の真実 「ボールが一瞬消える」違和感と空前の“ツネさま”人気
「日韓W杯、20年後のレガシー」#23 宮本恒靖の回顧録・第1回
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
2002年W杯に出場した日本代表メンバーは、大会を機に全国区の知名度を誇るようになったが、そのなかでも圧倒的な人気を獲得した1人が25歳で初出場した宮本恒靖だろう。開幕直前に鼻骨を骨折したことでフェイスガードを装着、その姿が「バットマン」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。「回顧録」第1回では、緊急出場となったベルギー戦の舞台裏を振り返る。
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2002年の日韓W杯は日本中を熱病のように興奮させ、空前のサッカー人気を巻き起こした。そして、ヒーローが誕生した。
その1人が、宮本恒靖だ。
登場シーンは、多くの人にインパクトを与えるものだった。W杯初戦、ベルギー戦の後半26分。森岡隆三が負傷し、サミアコーチが「ミヤ、ミヤ」と宮本を呼んだ。
「ピッチを見ていたら、隆三がしゃがんでしまったので、途中出場の可能性があるかもしれないと思いながらも、気負いすぎるのも良くないので、まあ大丈夫だろうと考えていました。基本的にDFの選手はFWの選手と違って、試合の途中で入ることがなかなかないので、実際に呼ばれた時はかなり緊張しました。2-1で勝っている状況で、まだ20分近く時間があったのでプレッシャーがあったし、試合をどう終わらせようか。それを考えながらピッチに入りました」
宮本が黒のフェイスガードを装着してピッチサイドに立った時、スタジアムが沸いた。チームの緊急事態に、「ヒーロー見参」とばかりに颯爽と現れたからだ。のちに「バットマン」と称され、世界中にその名を知らしめることになる宮本が初めてW杯の舞台に登場した瞬間だった。
フェイスガードをつけると足下の「ボールが一瞬消える」
黒のフェイスガードは、宮本のアイコンになった。
「まぁ、でも、つけたくてつけていたわけじゃないんでね」
宮本は苦笑するが、それは折れた鼻骨を保護するためのものだった。
W杯初戦の6日前、大学生との練習試合に出場した時、相手の肘が鼻に入り、鈍い音とともに鼻骨を骨折した。手や足の骨折ではなく、頭の負傷でもなかったことが不幸中の幸いだった。その夜には、フェイスガードを作るために大阪からメーカーのスタッフが宮本のもとを訪れた。
「折れた時は痛かったけど、それ以上に折れた鼻を元の位置に戻す治療が半端なく痛かった。またこうなったら嫌だなと思ったし、つけないとプレーできないと言われたので、すぐに作ってもらいました」
グラスファイバー製のプロトタイプは白だったが、宮本はそれをマジックで黒に塗り替えた。練習中に装着具合などを確認したが、視界に違和感があった。
「けっこう視野が狭いんですよ。フェイスガードがないと直接ボールを見ていなくても間接視野で見えますけど、つけると消えてしまう。ボールが来た時、コントロールして、周囲の味方を探すけど、ボールが一瞬消えるんで、次のプレーをする時に微妙なタイムラグが生じる。あと、真上に上がったボールも見えにくい。不安はあったけど、これはもう慣れるしかないなと思ってプレーしていました」
練習中、相手と不意にぶつかって再度折れたり、ヘディングに行く時の怖さはあった。だが、試合に出ることを考えると練習でも鼻をかばって中途半端なプレーなどできなかった。
「練習中に接触すると相当痛かった。強い衝撃を受けると鼻血が出たし、そういうのが3週間ぐらいは続くって言われた。でも、ワールドカップでプレーすることが大事だし、勝つことが重要なんで、戦ってぶつかろうが別にどうなってもいいと思いながらやっていました」
ベルギー戦も、その決意で宮本はピッチに立った。
ピッチ内の重たい空気のなか、「落ち着け」と何度も心の中で繰り返した。最初は硬かったが、徐々にほぐれていけばと思っていた。だが、出場してわずか4分後、失点してしまう。オフサイドのアピールをしているなか、ベルギーに2列目からの突破を許し、同点弾を叩きこまれた。ボックス内のオフサイドトラップは崩れると失点の可能性が高まるが、そこを突かれた。
ベルギー戦の2失点目のシーンで味わった悔しさ
「結果的にオフサイドトラップが崩れた形になったけど、ボックス内だからオフサイドトラップをしないという考えはこのチームにはありませんでした。それに(相手)FWとか何人かをオフサイドにしておいて、2列目から走ってくる選手に対しては、それまで対応できていた。ただ、この時は自分が2列目の選手に対応しようと戻る時、相手選手にブロックされてできなかった。マツ(松田直樹)と(中田)浩二は手を上げてアピールしていたけど、いろんなことが重なって失点につながってしまった」
宮本は悔しそうに唇を噛みしめ、これ以上の失点だけは絶対に防がないといけないと気持ちを奮い立たせた。ゲームは振り出しに戻り、そのまま2-2で終わった。 「負けずに勝ち点1を獲れたのは大きい」と思ったが、DF陣、とりわけ宮本は途中交代での出場で失点し、責任を感じていた。
だが、W杯で初めて勝ち点を挙げ、「バットマン」のインパクトも大きかった。英国などで報道され、黒いマスクがファンに配られた。当時の人気バラエティ番組『笑っていいとも!』で香取慎吾がフェイスガードを装着して登場するなど、社会現象になるのは第2戦のロシア戦後になるのだが、宮本自身がその熱狂を実感することになるのはW杯後、クラブに戻ってからだった。
ガンバ大阪の練習場には800人ものファンが集まり、騒然とした雰囲気になった。「ツネさま人気」は、今で言うフィギュアスケートの羽生結弦のようなブームとなり、試合にはこれまで来なかった層のファンが訪れた。CM出演はもちろん、クラブからは写真集が発売され、1万5000部が即売というとんでもない人気が、02年W杯を発端に06年のドイツ大会まで続いていったのである。
■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto
1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。