「トルシエさんの考えは違った」 稲本潤一、20年後の今も抱く日韓W杯トルコ戦の悔恨

「日韓W杯、20年後のレガシー」#16 稲本潤一の回顧録・第3回

2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

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ベルギー戦とロシア戦の2ゴールによって、22歳で国民的ヒーローとなった稲本潤一(現・南葛SC)。20年が経った今の想いに迫った「回顧録」の第3弾、今回は伸び伸びとプレーさせてくれた守備陣や控えメンバーへの感謝と、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦で抱いた不完全燃焼な想いについて語った。

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ロシア戦(1-0)での日本のW杯史上初勝利、そして初のグループリーグ突破に向けた勝ち点3の獲得に貢献した稲本潤一。ベルギー戦(2-2)に続く2試合連続ゴールからは、この大会に懸ける稲本の覚悟と気持ちが見て取れたが、そこまで振り切って攻撃的にプレーすることができたのは、ボランチの戸田和幸の存在が大きかった。

「僕が前に攻撃的に行けたのは、後ろに戸田くんがいてくれたのが大きかったです。戸田くんが、『後ろは任せろ』と言ってくれていたし、僕は前へ、前へ、という気持ちしかなかった。というか、それしか考えてへんかったけど、それをやらせてくれた戸田くんをはじめ、後ろの人には感謝しかなかったです」

稲本の攻撃面ばかりがクローズアップされるが、最終ラインを含めた守備についてはどうだったのだろうか。フラット3を敷く最終ラインとは、呼吸を合わせてラインを上下しなければならず、その練習も再三してきたはずだ。

「守備はラインの上下とか、そういう細かいところがすごく重要やし、気を使ってやらないといけないですけど、当時の自分はまったくそんなの気にしていなかったです。ほんまにやりたいようにやっていた。もちろん、全体が下がれば、その分、自分らも下がって守備をしますけど、そこで考えることもボールを奪って、どんだけ早く前に行けるかしか考えていなかったですね」

中山雅史や秋田豊がベンチで見せた姿勢は「簡単なことじゃない」

「勝ってくれ」トルコ戦後半のベンチで祈った勝利

「普通、点を取っている選手は、使っていたら何かやるやろなと思ってそのまま使うけど、トルシエさんは違う考えの人でした(苦笑)。正直、チュニジア戦(グループリーグ第3戦/2-0)の時は調子がそんなに良くなかったんです。けど、トルコ戦は、別に何が悪いということはなかった。でも、市川を入れて両サイドを高くして、明さん(明神智和)をボランチにして真ん中を固めた。でも、それやったら自分でもやろうと思えばできるので、その指示を与えてくれよと思っていましたね」

選手交代で流れを変えようとするもピッチの状況は好転せず、稲本はベンチの中で、ひたすら念じていた。

「勝ってくれ」

勝ってベスト8に進出すれば日本サッカー界にとって歴史的な偉業となり、また稲本自身も次の試合に出場して、点を取るチャンスも出てくる。だが、雨の中、思うような攻撃ができないまま試合が終わろうとしていた。

稲本潤一 / Junichi Inamoto

1979年9月18日生まれ、大阪府出身。ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、97年に当時のJリーグ最年少記録となる17歳6か月でデビューを果たす。年代別日本代表でも頭角を現し、99年ワールドユース準優勝、2000年シドニー五輪出場を経てA代表の主力に成長。迎えた02年日韓W杯では2ゴールを奪い、日本のベスト16進出に貢献した。W杯には3度出場し、日本代表通算82試合5得点。クラブでは01年のアーセナル移籍を皮切りに欧州7クラブを渡り歩き、10年に帰国後は川崎フロンターレ、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原でプレーした。今年1月から関東サッカーリーグ1部の南葛SCに所属している。

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