「以前はガンバ一筋で、クラブに残る形がいいな、と」FC今治退団後、オファーを待ち続ける42歳橋本英郎が「引退」を考えないワケ
Jリーグの新シーズン開幕が近づくなか、いまだ去就の決まっていない選手たちが少なくない。ガンバ大阪時代に「黄金の中盤」の一角を担い、日本代表として15キャップを誇る42歳のボランチ、橋本英郎もその一人である。
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3シーズン在籍したJ3のFC今治とは契約満了となって退団。現役続行の意思を表明し、移籍先の決まっていない選手たちが集まってキャンプを行なう元Jリーガー、増嶋竜也主宰の「Reback プロジェクト」にも参加してトレーニングを続けている。関西圏にある地域リーグのチームからオファーは届いているが、J1、J2開幕から1カ月後の3月中旬にスタートするJ3、JFLを含めほかのチームから駆け込みで声が掛かる可能性もある。最後の最後まで待ったうえで、キャンプ後の2月上旬に最終決断する意向だ。
昨年9月に全治3カ月の右鎖骨骨折
「まだ完全燃焼していないみたいなんです」
大ベテランは開口一番、そう語った。今治から契約非更新を告げられても、頭の中に「引退」の二文字はまったくなかったという。
その気持ちは痛いほど理解できる。昨年9月に全治3カ月と診断される右鎖骨骨折の大ケガを負うまでは、レギュラーとして今治を支えてきた。橋本の状態はここ数年で一番良かったと言ってもいい。
「今治に最初に来たころは(練習場が)人工芝で、適応にちょっと苦労しました。それでもJFLからJ3に昇格できて、コロナ禍の影響でギュッと日程が詰まった20年シーズンはケガが2回ほどあったんですけど、段々とパフォーマンスが上がった状態で21年に入ったので、ケガをするまではコンディションも良かったし、プレーでもミス少なくやれていました。会う人、会う人に“どうしてそんなにいいの? ”と尋ねられるくらいでしたから」
ただ一方でJ2昇格を目標とするチームの成績はふるわなかった。スペイン人のリュイス・プラナグマ・ラモス監督が5月に解任され、布啓一郎監督が就任しても浮上できないままだった。ピッチ上で奮闘を続ける橋本ではあったが、9月12日のホーム、藤枝MYFC戦の前半終盤に転倒した際に肩を強打してそのままピッチを去った。悔しそうな感情を浮かべながら。
「折れたという実感はありました。鎖骨を手術する場合、(復帰まで)2カ月掛かることは知っていました。シーズンの最後に間に合うかどうかと思っていたら、CT検査の結果は複雑骨折もあって3カ月だ、と。僕の今シーズンが終わったなと思いました。このチームでの自分の役割としては試合に出続けることが最低条件。そのうえでチームの結果に結びつけていかなければならないと考えていました。その結果が出なくて、個人的には責任を強く感じていた部分はあったと思います」
クラブからの通達を静かに受け入れた
その後9月下旬には布監督も契約解除となり、アカデミーメソッドグループ長の橋川和晃が指揮を執るようになってチームは何とか上昇の気配を見せていくようになる。
自分のパフォーマンスとチームの結果が比例しなかった現実に、契約満了は覚悟していた。そしてそのとおり、クラブからの通達を静かに受け入れた。
心に宿した野望があった。
「地域リーグやJFLからはい上がってJ1まで階段を上っていく選手はいても、J1でずっとやってきて、一度JFLまで階段を下りていって、J3、J2まで昇格させた選手は今までおらんやろ、と。40歳を過ぎて下り階段しかないと思われているなかで、“えっ、橋本は逆に上がっていってるの? ”と驚かせられたら面白い。同じ年の南(雄太)が横浜FCで、昨シーズンで言えばヤット(遠藤保仁)がジュビロ磐田でJ2からJ1に引き上げましたけど、JFLからJ2までというのは多分ないと思うんです。それができなくなってしまったのは心残り。ただプロの世界なんで仕方のないことですけどね」
「ガンバ一筋でやって、クラブに残る形がいいな、と」
自分が掲げる目標を達成して完全燃焼したいというその思いはガンバ大阪を離れたときからずっと心にあったものだ。もともと、ジュニアユースから育ってきたガンバ大阪でのワンクラブマンで終わりたかった。それこそが彼の願望だった。
橋本が言葉を続ける。
「松波(正信)さんが2005年に31歳で引退して、ほかにもオファーがあったのにガンバ一筋で辞めていくのを目の当たりにして、凄く強い印象として残ったんです。實好(礼忠)さんが2007年に、松代(直樹さん)が2009年にともに35歳で引退して、指導者としてガンバに残って。だから僕も35歳くらいまでガンバ一筋でやって、クラブに残る形がいいな、とそれを目標にしていたところは確かにありました」
だが思いも寄らない形で、その願望は閉ざされる。
フットボーラーとして“死に場所”を求める旅
2011年シーズン前に右ひざ前十字靭帯損傷で長期離脱を強いられ、終盤になって復帰を果たしたものの、契約満了となった。巻き返すチャンスを与えられないまま、32歳で20年間在籍した愛着あるクラブを離れなければならなかった。
最終節、アウェーでの清水エスパルス戦の終盤に出場した後、こみ上げてきた寂寥感は今も忘れられない。先に退団が報じられたこともあって、スタンドからは自分の名前を呼ぶ声も聞こえてきた。自分を支えてくれたサポーター、チームメイト、スタッフ……慣れ親しんだガンバの光景を忘れないようにといろんなものを目に焼きつけようとした。
フットボーラーとして“死に場所”を求める旅はここから始まった。
ヴィッセル神戸で3シーズン過ごした後、J2時代のセレッソ大阪、J3長野パルセイロを経て2017年からはJ2の東京ヴェルディへと渡る。そして2019年にJFLだったFC今治の岡田武史会長から声が掛かった。大阪・天王寺高校の大先輩からの誘いに、何か運命を感じないではいられなかった。
「ヴェルディのときに2年連続で(昇格)プレーオフに行くことができて、体も動くし、全然まだやれるなと思ったんです。そんなときに今治から誘われたんです。地域密着で町の人に愛されるクラブを目指していくなかで、今治だから経験できたこともたくさんありました。もし僕がずっとガンバで続けていたら、サッカースクール(プエンテFC)も立ち上げていないし、とっくに現役をやめていたとは思います」
今治でのチャレンジを終え、年が明けてもプレー先が決まっていない今の状況をモチベーションに変えようとしているのが今だ。
“もうこの熱量で続けるのは無理やわ”と思えるまで
ガンバでも経験してきたこと。自分の意思で決まるものではないのならば、割り切って切り替えるしかない。新しい環境は新しい自分と出会う機会でもある。何歳になろうとも、それは変わらない。
プレーできるならどこでもいいというわけではない。ビジョンとロマンに共感でき、モチベーションを注げるチームであれば地域リーグであっても構わない。少なくとも今、オファーを受けているチームとは「しっかり話し合ってみたい」とも語る。
「希望を言えば、きちんと目標があって将来につながるものが見えるチームでプレーしたいというのはあります。それにケガしたままで終わっていますから、自分がちゃんとやれるところも見せたい。いつか“もうこの熱量で続けるのは無理やわ”と思えるまで完全燃焼したい、それだけです」
橋本英郎は、いつもしぶとい。
階段を下りたと見せかけてまた上がっていくに違いない。



