「自分は日本人ではない?」タビナス・ジェファーソンが高2で知らされたルーツ…日本代表への夢を絶って選んだフィリピン代表のユニフォーム
決して簡単な決断ではなかった。
2021年5月21日、DFタビナス・ジェファーソンのフィリピン代表選出が発表された。同時に、タビナスは日本代表になるという夢を断念することになった。
J2水戸ホーリーホックで若きDFリーダーとしてプレーする22歳は、フィリピン人の母とガーナ人の父を持つ。母親とはタガログ語で、父親とは英語で話す一方で、家の外に出れば常に日本語でコミュニケーションを取る。小さい頃からこの毎日がタビナスにとっては当たり前だった。
「小学校に入るまではみんな2つくらい言語を話せるものだと思っていたら、同じハーフの子でも日本語しか話せないことに衝撃でしたね」
小学生になると、徐々に自分が周りの人たちと違うことに気づく機会が増えた。肌の色が黒いことや、漢字が入っていない自分の名前に違和感はあったが、家族は円満で学校生活も楽しく過ごしており、それはあくまで“ちょっとした違和感”に過ぎなかった。
「確かに父と母は日本にルーツはありません。でも、僕は日本で生まれ育っているので、心の中では自分が日本人だと思っていました。サッカーを始めてからずっと日本代表をテレビで見ていて、W杯ではそれこそ国民全体が熱狂していて。日本代表にずっと強烈な憧れがありました」
サッカーで日本代表になってW杯に出たい。日本を代表する選手としてヨーロッパで活躍したい。他のサッカー少年たちと同じように、タビナスはその夢を信じて疑わず、サッカーに打ち込んできた。
U-17日本代表にリストアップ
しかし、運命の歯車が大きく変わり始めたのは彼が高校2年生の頃だった。 「ジェフ(タビナスの愛称)の国籍ってどうなっているの?」
当時、神奈川県の強豪・桐光学園高の左サイドバックとしてメキメキと頭角を現すタビナスのもとに、U-17日本代表から招集の打診が掛かった。同校サッカー部の鈴木勝大監督から掛けられたこの何気ないひと言が自分のルーツを知るきっかけとなった。
「たぶん、(国籍は)日本だと思います」
タビナスはとっさにこう答えたが、一気に不安な気持ちが心を支配した。
すぐに自宅に帰って母親に確認すると、告げられたのは自分がフィリピン国籍であることだった。日本は二重国籍が認められておらず、パスポートは1人1冊しか持つことができない。彼が持っていたパスポートは日本ではなく、フィリピンのものだったのだ。
自分は日本人ではない――。当然、U-17日本代表入りの話はなくなった。「せっかくの日本代表のチャンスが……」とこれまで味わったことのない大きなショックを受けた。
ただ、自分で国籍を知り、ルーツを調べるようになったことで一筋の光も見えた。それは20歳になったら日本に帰化できるチャンスがあるということだった。
「最終的にA代表に入ることができれば問題がない。今は焦らずにサッカーの実力を磨くのと、プロになったら帰化するための準備をすればいいと思っていた」
ショックを振り払ったタビナスはサッカーに打ち込み、高校卒業後に川崎フロンターレへの加入を勝ち取った。川崎では毎日の練習に並行して、クラブが雇った司法書士と協力をし、帰化するための書類の整備や情報収集にも励んだ。
「この頃はずっと混乱していました」
しかし、さらにここから歯車は望まない方向へと進む。川崎では分厚い選手層の前に出場機会に恵まれない時期が続き、そして肝心の「帰化」についてもまた新たな事実が発覚してしまう。
20歳の誕生日を迎えた1カ月後の2018年9月7日、司法書士と一緒に川崎の法務局に申請を提出。その1回目の面談で、自分が1年更新のビザで日本に住んでいたことが発覚したのだ。
タビナスはこれまで母親の扶養という形で日本に在住していた。母親は滞在ビザの1年の期限を更新していく形でベビーシッターの仕事をしており、タビナスもそれに伴って毎年更新していたことがわかった。帰化するためには、まずは母親の扶養から外れ、中長期ビザ(3~5年程度)を取得してから、日本に継続して居住することが求められる。つまり、当時のタビナスは、まだ帰化する資格すら持っていなかったという事実を突きつけられたのだった。
では、日本の永住権を持つ父親の扶養に変える選択肢があったのではないか?
しかし、そもそもタビナスの父と母は日本の法律の下での婚姻関係はなく、いわゆるアフリカや北中米などでは一般的な「事実婚」であった。
さらにプロサッカー選手という職業は個人事業主のため、「一般企業の就労」に該当せず、仮に母親の扶養を外れたとしても、日本人の女性と結婚などをしない限りはこれまで通り1年更新でビザを取得しなければいけない。
「サッカーでもうまくいかないし、それに加えて自分が何人なのか、どういう存在なのかすらも見失って……この頃は頭の中がずっと混乱していました」
一方で、自分は寿命が短いプロサッカー選手だ。ここで足踏みをしているわけにはいかない。焦燥感が生まれたタビナスは、当時J2だったFC岐阜への期限付き移籍を決断する。だが、岐阜でもスタメン出場はわずか1試合。在籍した1年間でリーグ戦出場は8試合と、不本意な結果となり、「完全に自信を失っていた」と振り返る。
そんなタビナスに転機が訪れたのはJ1ガンバ大阪に期限付き移籍した昨シーズン。J3を戦うU-23チームの戦力という位置づけだったが、ここで森下仁志U-23監督と出会う。
森下監督はタビナスの能力を高く評価する一方で、大きな課題である「感情の起伏」に対して正面から向き合ってくれた。ミスを引きずっているときは全力で励まし、他人のミスに対して感情を露わにしたら、激しく叱りつける。森下監督の粘り強いアプローチでタビナスは徐々に自信を取り戻していった。
このシーズン、シュートブロック数とパス数のランキングでJ3の1位に。トップチームでの出番こそ少なかったが、U-23では絶大な存在感を放った。その活躍が認められ、今季から水戸へ完全移籍。CBのレギュラーとして秋葉忠宏監督から全幅の信頼を寄せられている。
フィリピン代表からの打診
サッカー選手としての階段を登っていく中で、心境にも大きな変化が訪れた。
実は彼が岐阜に所属していたころ、フィリピン代表のスコット・クーパー監督から打診があったという。しかし、当時は「帰化をして日本代表入りを目指している」と断りを入れていた。G大阪にいた昨季も打診があったが、これも同じ言葉で断っていた。それでもクーパー監督は、「なぜ君がJ3でプレーしているのかがわからない」と評価し、タビナスを常に気にかけてくれた。
「君の意向は尊重する。でも、我々はいつも君のプレーをチェックしているし、機会があればこうやって連絡を取り合おう」
この言葉がタビナスの心にずっと残っていた。
22年間も日本に住んでいたのに、いきなり「僕は外国人です」なんて簡単にはなれない。日本代表という夢だってある。
「周りは『何人でもいいじゃん』と言ってくれるのですが、僕の中では心から愛している国なのに胸を張って日本人と言えない、ずっと在留期限を更新しながら生きていかないといけない苦しさがずっとある。ましてや、そこでフィリピン代表を選んだとなると、帰化へのハードルは一気に上がってしまう。サッカー選手を引退した後も、日本で住み続けたいと思っているからこそ、決断に踏み出せなかった」
揺れ動くタビナスのアイデンティティ。そして再び、クーパー監督から連絡が届いた。
「君を正式に代表招集したい。我々にとって重要な試合である6月のW杯アジア2次予選は、(フィリピンに)帰化する選手たちの多くが間に合うし、海外でプレーする選手たちも合流する。ぜひ君も来てくれないか。一緒に戦おう」
この言葉を本気で受け止めようとしている自分に気づいた。
「仮に粘って帰化できたとしても、それは3~4年先のことになる。もしかしたらそれ以上になる可能性だってある。サッカー選手の1年は普通の社会人の1年とはわけが違う。1年でも無駄にできないからこそ、自分が決断を下さないといけない時が来たと感じました」
期限内に自分のパスポートをフィリピンに送り、FIFAに受託をされた時点で日本代表への夢は途絶える。日本人になることを待つか、フィリピン代表となるか――。究極の2択を迫られたタビナスはフィリピン代表になることを選んだ。パスポートを送るとき、手は震えていた。
「どれも大事なルーツであり、すべて自分」
J2第15節のヴァンフォーレ甲府戦後、フィリピン代表が事前キャンプを張るカタールに飛び立った。チームに合流してみると、フィリピン人の両親を持つ選手は5人程度で、あとはフィリピンにルーツを持ちながらも、ドイツやスペインで育った選手たちがたくさんいた。会話は基本英語だが、それぞれが育った土地の言語同士で話す姿に驚いたという。
「チームで『フィリピン以外にどこのパスポートを持っているの? 』と聞かれるんですが、フィリピンしかないことを伝えると、『日本って厳しいんだね』と言われるんです。それに、まず『お前はどこの言語を使うんだ? 』と聞かれ、答えるとそれに合わせてコミュニケーションを取ってくる。
そもそも、ここにいる人たちはどこがルーツなのか、とか、言葉がどうか、とかまったく気にしていない。ネガティブに捉えていないんです。この決断は軽いものではなかったのですが、そんな彼らを目の当たりにして、そこまで考えすぎなくてもいいんだと思えるようになりました」
もう日本代表になることはできない上、フィリピン代表という経歴が帰化するハードルを上げてしまうリスクも負った。だがタビナスは、それ以上に自分が持つ多様性が周りに認められ、将来への道筋に繋がるような発見を得ることができた。
「これで形式上、フィリピン人だとハッキリした。でも僕の心はフィリピン人、ガーナ人、日本人である自分が同居している。どれも大事なルーツであり、すべて自分。それでいいんです」
現地時間6月7日、中国代表戦でA代表デビューをスタメンで飾った。フィリピン国歌斉唱の時、彼はユニフォームの左胸にある国旗に手を当てて、事前に覚えてきた国歌を歌い上げた。
「歌詞の意味も全て調べました。『フィリピン人よ、我らは勇ましい。愛情を持ってこの国を背負おう』という歌詞にグッときたし、僕もその一員として誇りを持って戦おうと奮い立つんです」
フィリピン代表は0-2で敗れたが、その後のグアム戦(3-0)では勝利に貢献。最終予選進出は逃したが、フィリピン人としての誇り、そしてガーナ人と日本人としての誇りも引き連れ、タビナスは新たな人生の一歩を踏み出した。