実力的には日本屈指、もっと代表で見たかった選手といえば?

それぞれの国の「代表チーム」でプレーすることは、サッカー選手にとって大きな価値がある。日本においても、多くのサッカー少年たちの夢であり、現役選手たちの誇りでもある。しかし、これまで日本代表に相応しいプレーを見せ、日本トップクラスの実力を持ちながらも、数試合のみのキャップ数で代表に定着できなかった選手も多くいる。

日本代表とは縁が薄かったが、もっと代表でのプレーを見てみたかった選手として真っ先に名前が挙がるのが、家長昭博だろう。ガンバ大阪の下部組織時代から並外れた才能を見せつけ、卓越したボールタッチと優れたボディバランスからの緩急巧みなドリブルで相手DFを翻弄。当時の西野朗監督の言葉を借りれば「いい時の家長はメッシ以上」だった。

代表デビューは2007年、オシム監督に招集されたが、出場1試合のみ。その後、出番減、レンタル移籍先での大ケガもあってキャリアが停滞したが、スペイン・マジョルカ在籍時の2011年にザッケローニ監督の下で4年ぶりの代表復帰。しかし、そこで与えられた役割は「遠藤保仁の後継者」としてのボランチ。多彩であったが故に“こなす”ことはできたが、結局は出場2試合のみでその後は招集なし。W杯での活躍で日本のスターとなった本田圭佑とはガンバ大阪ジュニアユース時代の同僚で生年月日が全く同じ。単純なサッカーの才能面では家長が本田を凌駕していたが、「日本代表・家長」は出場3試合0得点という寂しい数字になっている。

同じく現役Jリーガーでは、西大伍も、日本代表でもっと見たかった選手だ。実力は折り紙付き。評価も高く、鹿島アントラーズ加入1年目の2011年、アジア杯で優勝した後のザックジャパンに招集されたが、親善試合1試合に出場したのみ。優れた技術と知性、メンタリティを持ち合わせ、Jリーグベストイレブンに2度選ばれるなど国内屈指の右サイドバックとして活躍を続けたが、その後も代表ではアギーレ時代に招集されるも出番なしで、ハリルホジッチ時代は負傷辞退。ようやく2019年に森保ジャパンで自身2試合目の代表戦出場を果たしたが、定着せず。内田篤人と同学年で、それ意外にも駒野友一、酒井宏樹、酒井高徳、室屋成とライバルが多かったこともあって、「日本代表・西」は出場2試合0得点となっている。

昨年から社会人リーグの関西1部・FCティアモ枚方でプレーする野沢拓也も、日本代表のキャップ数に恵まれなかった。鹿島アントラーズの下部組織で育ち、高校3年時の17歳でJ1デビュー。高い技術を持ち、“変態トラップ”とも呼ばれたボールタッチからの天才的なプレーで、鹿島では通算254試合出場50得点をマークし、リーグ3連覇にも貢献した。しかし、日本代表では2006年にオシム監督から初招集されたが出場なし。その後、ザックジャパン時代に候補としては名前が挙がったが、それっきり。ジーコの愛弟子と呼ばれた男は、その能力を考えればサムライブルーのユニフォームを着てピッチに立っていてもおかしくなかったが、好不調の波が激しく、鹿島でも代表でも中盤の層が厚かったこともあって「日本代表・野沢」は出場0試合に終わっている。

奇しくも現在、野沢と同じFCティアモ枚方に所属する二川孝広も、その高い実力を代表舞台では発揮できなかった一人だ。ガンバ大阪ユース仕込みの優れたボールテクニックと空間を自在に操る浮き球のスルーパスを武器に、「浪速のファンタジスタ」として長く10番を背負った。相棒だった大黒将志がW杯舞台を経験した2006年の8月、オシム時代に初めて代表に招集され、10月の親善試合に背番号10で代表デビューを果たしたが、これが唯一の出場。当時、「リーグNo.1の無口ぶり」でも有名で、いわゆる「コミュ力」と「アピール力」が必要な代表チームでのプレーは不向きだったと言える。中盤のライバルも多く、「日本代表・二川」は出場1試合0得点となっている。

代表監督が代われば、選ばれる選手も代わる。他の種目と比べてもサッカーはその傾向が強い。監督が採用するシステム、戦術との相性、ライバルの存在、巡り合わせ、好き嫌いなど、理由は様々だが、「日本代表と縁が薄かった選手」にも多くの実力者がいる。家長に関しては、現在34歳ではあるが、今季も川崎フロンターレで飛び抜けたパフォーマンスと実力を示しており、今からでも日本代表でのプレーを見てみたいが、森保監督、いかがだろうか。

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