失明の危機に立たされても、サッカー選手であることを諦めない。
■自宅での個人トレーニング中にアクシデントに見舞われる。
昨年12月、オセアニア王者のヤンゲン・スポールの一員として、日本人では唯一、FIFAクラブワールドカップ2019カタール(以下、CWC)に出場したDF松本光平。彼がアクシデントに見舞われたのは今年の5月18日のことだった。新型コロナウイルス感染症の影響で所属するハミルトン・ワンダラーズ(ニュージーランド)の活動休止が続いていた中、彼は一人、自宅のガレージで個人トレーニングを行っていた。
「いつものようにガレージに取り付けてあるゴムチューブを利用して筋力トレーニングをしていたら、留め金が外れ、勢いよく飛んできた留め金の部分が右目に刺さり、チューブの部分が左目に当たったんです。幸い、左目はうっすらと見えていましたが、右目はものすごい衝撃を受けて、すぐに何も見えなくなりました。すぐに、救急でニュージーランド市内の病院に搬送してもらいましたが、『手の施しようがない。視力が戻る可能性は0%だ』と言われてしまい…。でも諦められなくて、すぐに日本にいる自分のマネージメント事務所の方と連絡を取り、日本の病院を手配していただきました。と言っても眼圧の問題ですぐには飛行機に乗れなかったことから、日本の病院の予約が取れたタイミングで5月31日に帰国し、6月1日に日本の病院で診てもらうことができました」
ところが、診断としてはニュージーランドの病院でのそれと大差はなかった。
「おそらく、日本のどの病院に行っても(ニュージーランドと)同じ診断をされると思う」
医師には最初にはっきりと言われたという。ただ、違ったのは「本当にわずかの可能性しかないし、リスクもあるけれど、執刀することはできる」という言葉を聞けたこと。その瞬間に答えは決まった。
「なんの処置をしなくても失明するなら、わずかな可能性に賭けてみる」
その場で先生に頭を下げ、6月8日に手術をすることになった。
決意の先にあったのは、彼が今シーズンの目標の1つに掲げていたCWCへの出場だ。日本で『プロサッカー選手』の夢を叶えることができず、08年に海外でのチャレンジを始めた時から、同大会への出場は目標に掲げてきたことの1つで、昨年、10年以上をかけてその目標は叶えられたが、その舞台がとても楽しく、刺激的だったからこそ「もう一度、あの舞台に」という思いを強くしていた。
「ニュージーランドでプレーするようになったのも、CWCへの出場が目的でした。その中で昨年、6シーズン目にしてようやく出場することができたのですが、結果も内容も全然納得のいくものではなくて。それがあまりに悔しかったので、もう一度リベンジしてやるという気持ちが強くなった。こうして右目の視力を失いかけている今もその思いは微塵も薄れていません。実際、向こうで右目は失明すると断言された時も、周囲の仲間には『片目でプレーするから大丈夫』って言っていました。ただ少しでも見えるに越したことはないので、手術がうまくいけばいいなとは思っています」
彼の思いに賛同し、すぐに仲間も動いてくれた。手術をして競技に復帰するには当然、資金もかかる。それを踏まえて、クラウドファンディングのプロジェクト設立から、支援の呼びかけまで、所属事務所と古巣・ガンバ大阪アカデミーの先輩であるMF倉田秋(ガンバ大阪)らが先頭に立ち、600人を超える支援の輪が生まれた。当初、手術や入院、通院、復帰に向けたトレーニングなどにかかる費用として300万円の目標金額を設定したが、わずか3日でそれを達成。現時点で660人を超える賛同者から420万強の資金が集まっている。
「光平はガンバユース時代の1学年後輩で、一緒にプレーした仲間です。海外で頑張っていることも聞いていたので、少しでも力になれたらと思いました。とにかく今は目のケガを治してピッチに戻り、活躍してくれるのを願っています(倉田秋)」
そうした先輩をはじめとする仲間の思いは、松本にとって何よりの治療薬になった。
「空港に迎えに来てくれた人、クラウドファンディングの立ち上げに協力してくれた人、いろんな人のおかげで今の僕があると思っています。同じマネージメント事務所に所属している秋くん(倉田)や東口順昭選手もすぐに連絡をくれて、ガンバユースOB会にも呼びかけてくださり、そこからいろんなアカデミーの先輩や後輩、サッカー仲間にクラウドファンディングの記事をシェアしていただいたり、パワーを送っていただきました。支援していただいた皆さんの気持ちに何としてでも応えるためにも、必ずピッチに戻って元気にプレーしている姿を見せられるように頑張りたいと思います」
■異色のキャリアで夢を追いかける。
幼少期にサッカーを始めた松本は、中学生になると同時にセレッソ大阪U-15に加入。同期の柿谷曜一朗(セレッソ大阪)や一学年下の山口螢(ヴィッセル神戸)や丸橋祐介(セレッソ大阪)らとともに活躍し、卒業にあたってはクラブからユース昇格も打診されていた。ところが、その話を断って彼はライバルチーム、ガンバ大阪ユースチームのセレクション参加を決意する。そこには彼なりの理由があった。
「地元ということもあり、子供の頃からセレッソが大好きでした。トップチームの試合をスタジアムに観に行ったこともあります。でも中学の3年間、僕らは一度もガンバに勝てなくて。正直、当時のガンバとセレッソのジュニアユースチームでは大きな差があり、僕らは『打倒ガンバ』が目標でしたが、ガンバはセレッソのことなんか眼中にないという感じで日本一になることしか考えていないように見えました。簡単に言えば、そのことを悔しく感じて、中学3年生時にクラブの方との面談でユース昇格を告げられた時に自分から『ガンバに行きたいです』と言ったのですが…かなり怒られました(笑)。当時はまだ子供で、大人の世界の話は何もわからず、単に強いチームに行きたい、プロになるためには強いチームでプレーしなきゃいけない、という思いだけで突っ走っていました。そのあと、自分でサッカー協会に電話を入れ『セレッソでの選手登録を抹消してほしい』と伝え、ガンバのユースセレクションを受けに行きました。そこで初めて一緒に参加していた仲間に『ガンバユースに入れる選手はほぼ決まってる。このセレクションにくる奴は、よほど自信があるか、よほどのバカだけだ』って教えられて焦りましたが(笑)、とりあえずやるしかないと思って臨んだら合格することができました」
そのガンバユース時代は周りの巧さ、技術の高さに圧倒されることも多かったが、だからこそ唯一自信があった『走力』で勝負しようと考えた。
「この足を周りの選手に活かしてもらいながら自分の武器を磨き続けるしかない」
サイドバックだった彼がその決意を固くしたのは、松本が2年生の時に、ガンバユースコーチに就任した松波正信(ガンバ大阪強化アカデミーダイレクター)の言葉がきっかけだ。
「05年で現役を引退された松波さんがコーチになった時に言われたんです。『自分がプロになった時は、スピードもパワーもないし、これといった武器もなかった。でも、プロでやっていくためには武器が必要だと考え、ポストプレーだけを磨き続けた。そのたった1つの武器があったからプロとして長く戦ってこれたんだと思う』って。その言葉がすごく重く響き、以来、『テクニックでは秋くんや同期の安田晃大(南葛SC)の足元にも及ばないけど、走れる力だけは誰にも負けない。自分はそこで勝負する』と思ってプレーするようになりました」
残念ながら、目指していたトップチーム昇格は叶わなかったものの、松波の言葉は、海外で『プロサッカー選手』というキャリアを切り拓くことを考えた時にも、常に心に留めていたそうだ。事実、最初の所属チームとなったチェルシーFCコミュニティーへの加入も、セレクションで示した走力がきっかけになった。
「『なんやこの走れるアジア人は?』と思われたらしく、それが加入のきっかけとなりました。と言っても当時はまだ学生ビザしか持っていなかったので公式戦には出られなかったんですけど。そのあと、10年は徳島ヴォルティスに、11年はジェフ千葉に所属できたのですが、両方ともケガでほとんどまともにプレーができず、しかもジェフで負った肩のケガは1年半くらいリハビリに時間を要してしまい…。復帰したタイミングでは登録の関係上、日本のチームではプレーできなかったので、再び海外に渡りました」
■職業は狩りという選手も?! 海外で培った経験を武器に。
以降は、オーストラリアのブリスベン・ロアーFC(オーストラリア)で再び海外でのキャリアを再開。14年10月にはニュージーランドのオークランド・シティFCと契約して以降は、CWC出場の夢を叶えようと、オセアニア諸国のクラブを転々とし、冒頭に書いた通り、昨年12月にその目標を実現した。そこからさらなるステップアップを目指していた中でのリーグ中断、そしてアクシデントーー。だが、今年で31歳になった今も、サッカーへの情熱は少しも色褪せていないと言い切る。
「とにかくサッカーが好きだということだけで突っ走ってきて今もそれが自分の原動力になっています。先のことは何も描いていなくて、まずはクラブワールドカップにもう一度出場することが第一の目標ですが、目がしっかり治ればそこからビッグクラブへの移籍も諦めていません。両目の視力を失うリスクを考えて、今はまだ左目は何の治療もしていないし、まずは右目の手術の結果を待って今後の治療方針を考えることになると思いますが、仮に両目が見えなくなってしまったとしても、それならパラリンピックを目指してやるっていう気持ちでいます。ケガをしてよかったとは言えないけれど、ケガをしたことでいろんな人に支えられていること、いろんな人の思いに触れられたことがめちゃめちゃ嬉しかったし、ケガをしなければこういう気持ちも感じられなかったと考えれば、これも僕にとってはすごく意味のあることなのかなとも思います。と同時にそうした皆さんの気持ちに応えるためにも、何が何でもサッカーは続けていこうと思っているので、これからも応援してもらえたら嬉しいです」
この言葉を聞いたのは、右目の手術から4日後だ。「うつ伏せでずっと寝ていなければいけなくて時間を持て余しているので、逆に今、話がしたいです」という本人の意向からリモート取材を行ったが24時間、うつ伏せ状態が続いている今も彼からは終始、明るい声が届けられた。
「眼の中にガスを入れて手術が行われたのですが、そのガスが抜けてしまったり、瞳孔が癒着してしまうと再手術になってしまうという理由から、2週間はうつ伏せの生活を強いられますが、もう4日、乗り越えられたし、あとたったの10日なので全然、大丈夫です! 長い人生、しかも一生、視力が戻らないと言われていたことを思えば、たった10日の我慢で視力が戻るなら、とも思いますしね。もっとも、手術が成功したかどうかは2週間後にしか分からないので、今はまだ視力が戻るとは決まっていませんが、執刀していただいた先生には『視力が戻るかはわからないけど、サッカーをするかどうかは君次第だ』と言ってもらえたので、その言葉を聞けただけでもよかったな、と。サッカーはもうできないと言われたら落ち込んだと思いますが、やるかどうかは自分次第なら復帰は確定したし、僕にとって大きな一歩になりました」
ちなみに復帰が決まったとしても、ハミルトン・ワンダラーズには戻らないそうだ。コロナウイルスの影響から、帰国を決めた時点で10月までニュージーランドに再入国できないこと。同リーグのシーズンは9月に終わるため必然的にハミルトン・ワンダラーズとの契約期間も終わることが理由だ。ただ、ニュージーランドでの実績を活かし、オセアニア諸国内でCWCに出場する可能性を残すチームへの移籍はほぼ決まっていると言う。
「僕がプレーするオセアニア諸国はまだまだサッカー後進国が多く、例えばニュージーランドにしても、サッカーよりラグビーという国なので、日本では全く巧い部類に入らなかった僕でも、ここでは結構、重宝してもらえます。サッカー自体は、日本のように機能的ではないですが、日本とはまた違った面白さもあるし、こうした経験はいずれサッカーをやめた時にも役立つのかな、と。例えば、去年CWCに出場したヤンゲンはニューカレドニアの中でもものすごく田舎にあるチームで、現地の方言で話すため、僕についてくれていたフランス語の通訳さんが『何を言っているか全然わからない』って言うくらい言葉が全く通じなかったり、用意してもらった家が藁でできていたり、誰もが自給自足の生活をしていることからチームメイトの職業が『狩り』だったり。そのせいか身体能力はすごく高いし、球際に強いのも『普段から、獣に食らいついているからだ』と笑っていました。そういう経験も含めて、自分の財産だと思っています」
失明の危機に立たされた今も決して下を向くことなく、明るく笑って前を向ける強さも、きっとその経験の中で培われたものだろう。そんな彼のことだから、近い将来、再びピッチでボールを蹴っているはずだ。仲間への感謝を胸に、サッカーができる喜びを噛みしめながら。