G大阪・遠藤保仁を中村俊輔が語り尽くす…動きを「見てくれるの。だから楽しいのよ」

G大阪の元日本代表MF遠藤保仁(40)が、2月23日の横浜M戦(日産ス)で、楢崎正剛氏の持つJ1最多出場記録・631試合に並んだ。現在中断中のJリーグが再開されれば、新記録達成は確実となっている。スポーツ報知ではこの大記録に際し、遠藤と縁の深い4人の選手、元選手を取材。Jリーグが中断期間中の今、本来ならG大阪の公式戦がキックオフしていた時間に、「エアJリーグ」応援企画の一環として、ネット限定の連載としてお届けする。札幌戦が予定されていた7日午後2時の第1回は横浜C・MF中村俊輔(41)。

一緒にプレーして、楽しかった選手は誰ですか。そんな質問に、遠藤はかつて「いっぱいいますけど、シュンとはすごく感覚が合いました。いつか、また一緒にプレーしたいですね」と答えたことがあった。だから、中村俊輔に遠藤について聞きたかった。1月末、横浜Cがキャンプを行う宮崎で取材に応じてくれた中村は「ヤット(遠藤の愛称)のこと聞きたいって?」と笑いながら、取材場所のホテルロビーに現れた。そしてソファーに深く腰掛けると「今(キャンプの)疲労がピークなの。ああ、疲れた…。このソファーいいねえ。寝ちゃうかも…」。しかしそんな言葉をよそに、チームの夜間ミーティングが始まる時間ギリギリまで「遠藤論」をたっぷりと語ってくれた。

ふたりの出会いは1998年のJリーグ開幕戦となった横浜M―横浜F(フリューゲルス)戦。横浜Mで前年97年にJリーグ優秀新人賞に輝き、この年チームの中心として期待されていた中村は、鹿児島実からこの年横浜Fに入団した一つ年下の遠藤を「1年目から(試合に)出ているやつ、いるな」と認識したという。その後、五輪代表やA代表でチームメートに。試合や練習の中で、お互いのサッカー観が合うことを確認していくが、実はふたりがともにピッチに立った時間は多くない。中村は2000年から2010年、遠藤は2002年から15年にわたって日本代表でプレーしていたが、主力として戦った時期はほとんど重なっていないからだ。

そんな中、中村が遠藤とともにプレーした印象的な大会に挙げたのが、2004年に中国で行われたアジアカップだ。当時、イタリア・セリエAのレッジーナに所属していた中村は、この大会に唯一の海外組として参加。「あのとき、おれも切羽詰まっていた。セリエAも始まる時期だったけど、それを捨ててでも代表で結果を出したかった」。この大会では中田英寿や小野伸二が招集されず、中村はエースとしての期待を一身に背負った。結果、中村はMVPに輝く活躍を見せ、日本を優勝に導く。そんな時、ボランチとしてトップ下の中村を生かしたのが遠藤だった。

「あのアジアカップはよかったよね。あの時はボランチで福西さん(福西崇史)とヤットが並んでいて…」。当時を思い返すと、“意外な”選手たちと遠藤の共通点を語ってくれた。

「(かつて所属したセルティックで)ロイ・キーンと半年だけ一緒にやったの。あと、今は監督になったけど、レノンって選手がセルティックのボランチにいたんだよ。彼らは無駄なプレーをしない。全部インサイド(パス)。だから左から来たボールを、ロイ・キーン、レノンが持つと、必ずオープンに持つわけ。あ、これ、こういうプレーするな、ってわかるから、次の人がすごく動きやすい。まず最初に動作がシンプル。だから簡単なように見えて、次の、次のひとまで、動きやすい。ヤットもそう。それが本当は難しいことだから、おれはすごく動きやすかったよ」

かつてマンチェスターUで数々のタイトル獲得に貢献した“闘将”ロイ・キーン、セルティックで絶対的なキャプテンとして君臨したレノン。遠藤のシンプルかつ正確なプレーは、そんな名MFたちと相通じる部分があったという。

さらに中村はおもむろに立ち上がり、記者を守備側の相手ボランチ、取材に立ち会ってくれた横浜C広報を遠藤に見立て、“プレー解説”を始めた。トップ下の自身とボランチ・遠藤(横浜C広報)の間に、相手ボランチ(記者)が立って、パスコースを遮断しようとする状況。ボランチ・福西がボールを持ち、中村がトップ下、もうひとりのボランチ・遠藤が、福西からのパスを受けようとしている場面だった。

「福西さんがヤットをみてるなと思ったら、ヤットはこっち(中村)をちらっと見ている。(福西から遠藤に)横パスが出ているうちに、DFがボールしか見ていないなら、おれはDFから見えない場所に移動して。後ろから(他のDFも)来ていないと思っていると、ヤットは必ずダイレクトでパスをくれる。でも横パスが出て、DFがおれのことをちらっとみて、おれ(へのパスコース)を消しながらくるでしょ。じゃあ、おれがくってやったら(DFの逆を取る動き)、今度ヤットは内側にトラップして、アウトサイドでパスをくれる。(動きを)見てくれるの。だから楽しいのよ。今の悪いな、とかいちいち言わなくていいんだよ」

ふたりの間にそんな“あうんの呼吸”が生まれた理由を、中村は「3男と4男だからだよ」と真顔で語った。遠藤は3兄弟、中村は4兄弟のともに末っ子。「オラオラな人を助けるのは簡単なんだよ。ただヤットからしたら、助けるだけで終わっちゃう。自分を生かせない。でもおれは、ヤットの良さも引き出すから。おれに当ててわざとダイレクトで落とすと、(相手の)ボランチが食いつくから、ここに出せるよ、とかやるからね。お互いが弟同士、気がちょっと使える。で、ちょっと控え目。自分からは、ぐいぐい、目立ちたくない。そういうとこが波長が合うところでしょ」。

主に中村がトップ下など2列目、遠藤がボランチとして3列目でプレーし、ともにお互いの良さを引き出したふたり。しかしオシム監督時代には、2007年にベトナムで行われたアジアカップなど、ふたりが2列目で並び立った時期もわずかだがあった。

「オシムさんの時は、ちょっと面白かったね。おれが右(MF)でセルティックボーイとか言われてて、ヤットがトップ下、だったかな。おれとヤットと(中村)憲剛を同時に使ったの、オシムさんしかいないんだよ。あんなにムーブムーブとか言っていた人が、(パサータイプの)3人を同時に使うってなんなんだろうなと。ヤットにはよく、走れ走れとか言っていたけど。やっぱり違いを見せたり、技術だったり、走れないけど走るタイミングとかの判断を持っているから、3人同時に使ってもらえたのかなと。オシムさんが倒れなかったら、もっとおれらも進化したと思うし、もっと考えて走ることで、いいサッカーができたかもしれないから、そこは残念だね」

一緒にプレーした思い出を、懐かしそうに語った中村。一方、遠藤の力を認めるからこそ、こんな言葉も残していた。

「海外に行ってほしかったひとりでしょ。おれの近くで。ボンバー(中沢)とヤットと(中村)憲剛。見たかったしね。例えば(小笠原)満男はメッシーナにいって、今までなかったキャプテンシー、戦う姿勢にさらに気づいて、大きくなった。ヤットも(海外に)行って気づいたことも絶対にあったと思う。ただ、ひとつのクラブでずっとやり続けるのも難しい。それはリスペクトしてますよ」

欧州で7年半にわたるキャリアを積み、その経験を日本復帰後はJリーグに還元している中村と、Jリーグ一筋で歩みながらも、世界を見据えながら自らを高めてきた遠藤。歩んだキャリアは異なるが、ともにお互いの力を認め合い、ピッチに立てば共鳴した。そんなふたりがともに40歳を越え、それでもJ1の舞台で相まみえる可能性がある今季。手の内も知り尽くした同士のマッチアップは、サポーターにとって再開が待たれる2020年シーズンの大きな楽しみの一つだろう。そしておそらく、ふたりも敵とはいえ、再び同じピッチに立つ瞬間を待ちわびているはずだ。

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