「怪物くん」明神智和に見る サッカーの本質とプロという仕事

引退、明神智和インタビュー(後編)

12月8日、J3最終節のロアッソ熊本戦。AC長野パルセイロの明神智和が、24年間のプロ生活に終止符を打った。柏レイソル、ガンバ大阪、名古屋クランパスでの活躍はもちろんのこと、日本代表でも輝かしい実績を持つ彼は、J3での3年間も「とても幸せだった」と言う。

引退を決断した彼に、一番の思い出を尋ねると「たくさんあるけど……」と前置きしたうえで、「やっぱり1996年にプロになれたこと」だと言う。あの時、勇気を持って踏み出した一歩がなければ今はない、と――。

◆        ◆        ◆

背中を押してくれたのは、2013年に他界した父だ。ラストマッチを観戦に訪れていた母・朱美さんが教えてくれた。

「当時は、まだプロが始まって間もない時代。私は『大学に行ってからでも遅くないんじゃないの?』みたいな話をしたのですが、主人は『2~3年、遠回りしたって、人生をやり直すには遅くない。やりたいならやればいい。ただし、1~2年はチームが面倒を見てくれるだろうけど、そのあとはわからないぞ』と。

それに対して智和も、『その時には、僕に力がなかったということだから、しっかり受け入れて、次のことを考えるから』と言っていたのを覚えています。そこから、24年ですからね。決して大きくはない体で、よくがんばったと思います。とくにここ4~5年は、環境も変えながら、大変なところもあったと思いますが、主人も空から応援してくれていたのかもしれません」

加えて言うならば、ルーキーイヤーとなったその年、当時の柏を率いるニカノール監督によって、Jリーグ開幕戦のスターティングメンバーに抜擢されたことも、彼にとっては、のちのキャリアを語るうえでキーになった出来事だ。そこで味わった、プロサッカー選手としてプレーすることの醍醐味は、その欲を大きく膨らませた。

「プロにはなれたものの、高校の頃からまったくの無名選手で、トップチームに昇格した時も、きっと周りの先輩選手にしてみれば、『誰だ? こいつは?』くらいの感じでしかなかったと思います。でも、当時のニカノール監督は、知名度や年齢をまったく気にすることなく、ユースから昇格してきた何も知らない僕を開幕戦で起用してくれた。

そこで味わった興奮、サッカーの面白さ、プロサッカー選手としてプレーすることの厳しさ、楽しさがあったから、『もっとうまくなりたい』『もっと試合に出たい』『勝ちたい』と思えたし、その欲をずっと持ち続けていたら、41歳になっていました。

この24年間、サッカーを嫌いになったことも、やめたいと思ったことも一度もありません。僕にとってのサッカーは、今も変わらず『大好きなもの』で、と同時にプロになった瞬間からは『仕事』でした」

自分がただ大好きなサッカーを楽しむだけではなく、見ている人が、それを楽しいと思えるか。お金を払ってスタジアムに足を運んでよかったと思えるか。最後まで、そのことに愚直に向き合いながら、サッカーに魅せられ、サッカーを愛し続けた24年間だった。

余談だが、ルーキー時代の明神のことを鮮明に覚えている元チームメイトがいる。長野の現監督、横山雄次だ。当時、28歳だった横山に対し、明神は18歳。華々しいデビューを飾ったとはいえ、当時の明神からは、のちに日本を代表する選手に成長する姿を「想像できなかった」と横山は振り返る。

「ルーキーだった頃から、明神は先輩選手に可愛がられていたし、後輩からも慕われていました。誰に言われるでもなく、黙々とチームのために働ける選手でしたが、まさか自分が50歳になって、監督と選手という立場で明神と再会するとは思ってもみませんでした。

当時も、よくチームメイトと話していましたが、今現在の彼のキャリアを想像できるようなところはまったくなく……(苦笑)。僕もまだ選手で、先輩選手としての意地もあり、『明神よりも自分のほうが断然うまい』と自負していたというのが本音です。ただ、サッカーの本質は、そこにはなかったということだと思います。

事実、この一年、同じチームで一緒に仕事をするようになってからの振る舞い、練習態度を見ていても、彼はどんな状況に置かれても、絶対に手を抜くことはありませんでした。勝っても、負けても、同じようにしっかりと準備をし、41歳になった今シーズンも、練習はフルメニューでやりきっていた。

今日の試合も、気を遣って出したわけではなく、勝ちたいと思って、明神を先発メンバーに選びました。そういった彼の姿から、またこれまで歩んできたキャリアから、僕自身もプロとしてあるべき姿を学ばせてもらった。日本のサッカー界にとってもスペシャルな選手だったと思います」

そうして、最後の最後まで、プロサッカー選手として戦い抜いた明神に、ラストマッチの翌日。あらためて、尋ねてみる。

――これからは、試合後のケアもしなくていいし、次の練習、試合に向けた準備をしなくていい毎日が続いていく。寂しさはないですか?

その返答に、彼のこの24年の戦いが透けて見えた。

「昨日の試合を終えて、久しぶりの試合だったからか、体がめちゃめちゃ筋肉痛で(笑)。でも、その痛みを感じながら思ったんです。『もう、体をケアする必要も、練習に向けた準備をする必要もなくなるんだな』って。自分で言うのも何ですが、おそらく僕は、この現役生活のなかで、Jリーガーの中で1、2位を争うくらい、体に湿布を貼ってきたと思うんです。寝るときも、移動のときも。シーズン前のキャンプになると、とくに念入りに(笑)。

また、栄養的に正しいのかはわからないけど、これまで毎日、晩御飯では必ず、お米を1合食べるようにしてきました。でも、『もう1合も無理して食べなくていいんだな』とか、『食べるものに気を遣わなくてよくなるんだな』とか、『湿布を貼って寝なくてもいいんだな』と思った時に、『ああ、引退するんだ』と実感したし、その事実を寂しく思う自分も確かにいます。

だって、こんなすばらしい職業はないですから。いつまでも現役選手でいられるなら……60歳、70歳になってもサッカー選手でいたい。でも、やりたいだけじゃできない世界だし、やりたいだけでいたらいけない世界だから、引退なんです」

そう話す彼に、かつてのチームメイトが話していた言葉が重なり合う。あの時も、この時も――。きっと彼はたくさんの湿布を貼って、ピッチに立っていたのだ、と。

「ACLで遠征した際に、宿泊したホテルの食事環境があまりよくなくて。みんなが食べられないだの、美味しくないだの、言っている時に、パッとミョウさんのほうを見たら、皿ごと食べる気ちゃうかってくらい、黙々と料理に食らいついていました」――2008年、安田理大(現ジェフ千葉)談

「ミョウさんが腰に手を当てて、肩で息をし始めたら気をつけて。それが本領発揮の合図だから。そんな姿を後ろから見ていて、『うわっ、すっげ~!』って、感嘆の声をあげちゃうこともあって。そしたら、敵のFWが『いや、本当にすごいっすね』ってノッてくる(笑)。そんな選手はなかなかいない」――2011年、中澤聡太談

「ミョウさんほど、ボールを奪うことに対して職人肌の人はいない。だって『こっちを消しながら、あっちも消す』って、コースを一度に2つ消せるから。しかも、ここにいてほしい、この場所でボールを取ってほしい、このパスコースを切ってほしいっていう時に必ずいてくれた。だからミョウさんには……”怪物くん”を命名する!」――2011年、加地亮談

「一緒にプレーした記憶として今でも覚えているのは、僕がプロ1年目だった2011年のヴィッセル戦。終盤、足をつってしまった僕を、ミョウさんがずっと『最後までがんばれ』って励ましてくれて。ミョウさんもしんどい時間帯だったはずだし、実際、ボールがないところでは、ヘロヘロになっていたけど(笑)、あの人、何があっても絶対にサボらないし、最後までやり切る人でしたから。そんなミョウさんに言われた一言だから、すごく響いたし励まされた」――2019年、藤春廣輝(現ガンバ大阪)談

たくさんの仲間に愛され、頼りにされ、驚かれながら、黙々とボールを追いかけ、食らいつき、勝つことを目指した24年。明神智和は、湿布まみれの現役生活を勲章に、次の扉を開ける。

(おわり)

明神智和(みょうじん・ともかず)1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。柏レイソルユース→柏レイソル→ガンバ大阪→名古屋グランパス→AC長野パルセイロ。1997年ワールドユース(現U-20W杯)出場(ベスト8)。2000年シドニー五輪出場(ベスト8)。2002年日韓共催W杯出場(ベスト16)。豊富な運動量と鋭い読みで相手の攻撃の芽を摘むディフェンシブハーフとして活躍した。

リンク元

Share Button