【G大阪】クルピ新監督を唯一知る男、日本代表MF倉田が想像する“クルピ・ガンバ”

1月上旬、倉田はチームの始動前から大阪府吹田市内のG大阪クラブハウスに足しげく通い、2018年シーズンに向けた準備を進めていた。するとチームメートと顔を合わせるたびに、同じ質問を投げかけられた。

「みんな、めっちゃ聞いてきますよ。クルピのこと。おれだけっすからね、ガンバでクルピとやったことがあるのは」。

G大阪は昨季まで6年間指揮を執った長谷川健太監督が退任し、今季からブラジル人のレヴィー・クルピ監督を迎える。クルピと言えばかつてC大阪を率い、MF香川真司=現ドイツ1部ドルトムント=、MF乾貴士=現スペイン1部エイバル=ら若手の才能を開花させた攻撃サッカーの印象が強い。倉田も、その指導で花開いたひとりだ。

昨季からG大阪で10番を背負い、ハリルホジッチ監督の日本代表にも名を連ねるようになった倉田。今や押しも押されぬG大阪の中心選手だが、2007年にユースからトップチームに昇格してからの3年間は、鳴かず飛ばずだった。当時のG大阪は中盤に遠藤、明神、橋本、二川と日本代表クラスの選手がそろい、若い倉田が与えられたチャンスは限られていた。

出場機会を求め、倉田は10年、J2千葉に期限付き移籍し8ゴールを挙げる。翌11年はJ1への再チャレンジを決めるが、ここで選んだのが当時クルピ監督の率いるC大阪だった。少しでも出場機会が多いチームをと考えた結果、大阪のライバルチームへの期限付き移籍を選択し、ブラジル人指揮官と出会った。

しかし当時のC大阪はMF乾、韓国代表MFキム・ボギョン(現柏)、さらに12年ロンドン五輪日本代表の司令塔を務めるMF清武の3人で、攻撃的MFのポジションは占められていた。

「最初、(クルピに)言われましたもん。乾とキヨ(清武)とボギョンがいるからって」。当時のC大阪は、2列目の3人がポジションを入れ替えながらゴールを目指す“3シャドー”と呼ばれるシステムで戦っていた。倉田はレギュラー格の3人に、ポジション争いを挑む位置からスタート。2月の春季キャンプ、清武が負傷で出遅れる中、倉田は好調をアピールし続けた。

「あの年はキャンプから調子がよかったんですよ。あと(日本人コーチに)言われてたし、最初が大事やって。クルピはメンバーをある程度、固定する傾向があるから、最初に15、6人の枠にまず入らないとあかんって。だから最初からかなり飛ばしていた。試合に出られたのは、キヨがけがしていたというところもあって、ですけどね」。

キャンプでのアピールに成功し、倉田はこの年、開幕戦で先発のピッチに立つ。相手はG大阪。3シャドーの一角で先発すると、後半27分にボランチへとポジションを移し、1分後の同28分にJ1初ゴールとなる貴重な同点ゴールを決めた。試合は1―2で敗れたが“大阪ダービー”で結果を残した男は、レギュラーとして認められた。

当時のクルピ監督から、倉田が口酸っぱく言われていたことは「とにかくシュートを打て」だった。

「どんなにその試合でいいプレーをしても、シュートが0本やったらめっちゃ切れられるんですよ。とりあえず、前を向いたら打てと。あとシュートは(上に)ふかすな。ふかしたらぶち切れですよ。シュートはコースを狙って、きっちりと。そればっかり言われた。ゴールへの意識は、この1年でめっちゃ変わったと思う」

攻撃的な選手には、とにかくパスよりシュートを強く意識させる。クルピ監督はこの指導で、香川の得点能力も開花させている。指揮官はこの年、清武が本調子を取り戻すと、キム・ボギョンをボランチで起用し、倉田を3シャドーのレギュラーで使い続けた。倉田も期待に応え、この年J1で自己最多の10ゴールをマークした。

倉田はクルピがG大阪でも当時と同じく3シャドーを採用した場合「アデ(アデミウソン)とか合いそうですね。あと遙也(井出)とか」と適性のありそうな選手の名前を何人か挙げた。一方で自身は「おれは言われたところどこでも。チームが勝てるんやったら、どこでもやりますよ」とポジションにこだわらない考えを語った。

倉田はクルピの元で才能を開花させた後、12年からG大阪に復帰。長谷川監督の下で守備のレベルも上げ、ボランチ、サイドMF、トップ下と複数のポジションで攻守に貢献できるオールラウンドなMFへと進化している。今の姿を見れば、クルピ監督も当時とは違う役割を与える可能性もある。

「一緒にやったのはかなり前っすもんね。やり方は変わってるかもしれん。でも攻撃的なサッカーは目指すと思うんで。またやれるのは楽しみですよ。まさかガンバでやるとは思ってなかったけど」。

昨季J1で10位と低迷したG大阪。チームの立て直しを誓う背番号10は、かつての恩師との再会を心待ちにしている。

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