2016年 吹田スタジアムの価値<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

「民の心の結集」としてオープンした吹田スタジアム

2016年にオープンした、市立吹田サッカースタジアム。その竣工式が行われたのは、15年の10月10日のことである。「スタジアム建設募金団体」主催の竣工式を終えた後、スタジアム建設のための募金に5万円以上を寄付した4,394名が招かれた。Jリーグ・スタジアムプロジェクトの責任者である佐藤仁司は、万感の思いで迎えたこの日のことを、こう振り返っている。

「それまでも何度か訪れていましたが、この日はやはり格別でしたね。サポーターの皆さんが、ゲートからコンコースに入って劇場のようなスタジアムを目の当たりにすると『ウォー』という歓声が次から次へと聞こえてくるんですよ。それから、募金をされた方々のネームプレートの前で自分の名前を見つけた人が『あった、あった!』と、まるで合格発表のように喜んでいる(笑)。試合でもないのに、たくさんの人たちが瞳を輝かせている。スタジアムが持つ力というものを、あらためて実感しましたね」

吹田スタジアムの建設に誰よりも深く関わった、元ガンバ大阪取締役社長の金森喜久男は、このプロジェクト成功の功労者として、川淵三郎、下妻博、中村邦夫の名を挙げている。現在、日本サッカー協会(JFA)最高顧問を務める川淵については、もはや説明の必要はないだろう。下妻は関西経済連合会の前会長で、住友金属工業社長時代にジーコの招へいに尽力したことでも知られる。そして中村はパナソニックの元社長で、「創造と破壊」を掲げて松下電器産業を立て直した人物。このうち残念ながら下妻は、竣工式から1カ月後の11月15日に78歳で死去している。以下、金森の回想。

「スタジアム建設募金団体の決算総会および解散式の時、川淵さんが下妻さんについて涙声でこうおっしゃっていました。『経団連や関経連の会長さんが、こういう団体のメンバーになる場合、ほとんどは名前だけの方が多い。けれども下妻さんはお亡くなりになるまで、一度も理事会をお休みにならなかった。最後まで出席、討議をされてありがたかった』と。私もまったく同じ気持ちです」

竣工式の日、晴れがましい式典に出席できなかった下妻は、ひとつの秘めた思いを「願わくば、このスタジアムが民の力、民の心の結集たることを明記賜りたい」という言葉にして金森に託し、竣工式冒頭のあいさつの際に参列者に伝えられた。「吹田スタジアムはガンバだけのものではなく、皆さんの資産です」と口癖のように語る金森もまた、下妻が残した「民の心の結集」という言葉を胸に深く刻みながら、今は追手門学院大の教授として、若者たちにスポーツビジネスを教える日々を送っている。

「サッカーを知らない男」がG大阪の社長になった理由

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第4回の今回は、2016年(平成28年)をピックアップする。つい昨年の話ではあるが、この年の1番のトピックスといえば、やはり「吹田スタジアムのオープン」に尽きるだろう。昨年2月14日のこけら落とし以来、G大阪のホームゲームはもちろん、キリンカップ(日本代表対ボスニア・ヘルツェゴビナ代表)、FIFAクラブワールドカップ(W杯)の4試合、そして17年元日には天皇杯決勝も行われた。

この臨場感あふれる最新の球技専用スタジアムには、G大阪のサポーター以外にもスポーツを愛する多くの人々が訪れている。そして、この吹田スタジアムのプロジェクトについては、すでにさまざまな言及がなされてきた。本稿では、立場の異なる2人の証言者に登場していただく。まず、G大阪の元社長で、スタジアム建設の陣頭指揮を執った金森。そしてもう1人は、Jリーグで09年からスタジアムプロジェクトのリーダーを務めている佐藤である。金森にはプロジェクトの当事者として、そして佐藤には俯瞰的な観点から、それぞれ語ってもらった。
物語の起点となるのは08年4月。この年、金森はG大阪の社長に就任する。金森は愛知県名古屋市の出身で、71年に当時の松下電器産業株式会社に入社。北陸支店長や分社の常務取締役を経て、情報セキュリティー本部長、上席審議役などを歴任。ただし、当人いわく「宮本(恒靖)選手の名前も知らないくらい(苦笑)」サッカーとはまったく縁のない人生を歩んできた。そんな彼がなぜ、この年にアジアチャンピオンとなるクラブの社長に任命されたのか――。当人はこう分析する。

「おそらくマネジメントという考え方で選んでいるのではないかと思います。われわれ松下の幹部職は、(ピーター・)ドラッカーをよく勉強します。ドラッカーが言うところの『顧客の創造』が、創業者である松下幸之助の考え方とすごく近かったからです。お客さんにいかに喜んでもらうか。それが、われわれの仕事という理解です」
サッカーの知識よりも、まずは「お客様本位」。G大阪の社長就任にあたり、そう理解した金森であったが、すぐさま新たな仕事に関する勉強を開始している。ここで特筆すべきは、彼が自分のクラブのことだけでなく、日本サッカー全体を俯瞰するように情報を集め、大局観をもって物事を考えていたことだ。特に金森が気になったのが、サッカーの重要な試合が関西で開催されないこと。日本代表のW杯予選、天皇杯決勝、そして全国高校サッカー選手権。だがよく調べてみると、高校選手権は75年(第54回大会)まで関西で開催されているではないか。「これは関西に、ちゃんとしたスタジアムがないからに違いない」──金森はそう確信する。

「スタジアムを10年で10個、造ってくれ」

もうひとりの証言者である佐藤は、80年に三菱自動車工業に入社。当時としては珍しく、学生時代から欧州を旅行して現地でサッカー観戦をするのが趣味だったという。日本サッカーリーグの主務兼運営委員だった経験を買われ、Jリーグ開幕直前に浦和レッズの立ち上げに関わり、そのままスタッフとして05年まで活躍。その後はJリーグに籍を移し、アカデミーの立ち上げやイレブンミリオンプロジェクトに参画する。この時の経験が、のちのスタジアムプロジェクトにつながっていったというのが本人の弁である。

「(プロジェクトの)きっかけは2つありました。まず、Jリーグ事務局の藤村(昇司)部長による「欧州におけるサッカースタジアムの事業構造調査」。大変よくできたレポートで、Jリーグとしてもスタジアムにもっと目を向けなければならないという意識が共有されました。もう1つが「イレブンミリオンプロジェクト」。試合前後のファンサービスやアトラクション、グルメ。お客さんを集めるために、各クラブはさまざまな努力をしてきましたが、最後はどうしてもハードの問題にぶち当たっていました。屋根がないとか、アクセスが悪いとか」

藤村による、スタジアム事業構造調査のレポートが作成されたのは08年。この時、Jリーグは開幕から15年が経過していた。初代チェアマンの川淵が提唱した「全国に芝生のグラウンドを」というスローガンは、すでに着実に実行されている。「芝生の次はスタジアム」──そんな機運がJリーグの中で共有されていったのは、時代の必然だったのかもしれない。そして09年、佐藤は当時のチェアマン、鬼武健二から新たなミッションを託される。

「鬼武さんの言葉は、よく覚えていますよ。『あんたは海外のいろいろなスタジアムをよう知っとるんだから、欧州にあるようなサッカースタジアムを10年で10個、造ってくれ』という感じでしたね(笑)。まあ、さすがに10年で10個というのは無茶な話ですが、私は鬼武さんに『予算は少なくていいので、長いスパンでやらせてください』とお願いしました。イレブンミリオンは、4年間でJリーグの総入場者数を1100万人にするというプロジェクトでしたが、スタジアムというのは4年でどうこうできる話ではない。ですので、長いスパンで取り組むことが肝要だと感じていました」

かくして09年、Jリーグでは佐藤をリーダーにしたスタジアムプロジェクトが、わずか2名の小所帯でスタートする(2人体制は現在も同じ)。そして前年の7月には、金森が社長に就任したG大阪が新スタジアムの建設プロジェクトをすでに公表していた。この時、すでにクラブ側は、可能な限り寄付金によって建設費を賄うという方針を固めている。「スタジアム建設募金団体」が設立されるのは、10年3月のこと。ただし募金団体の設立には、強力な後ろ盾が必要である。金森はさっそく、協力者となってくれる「同志」を得るための行動を開始した。

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